【人物概略】
マルクス・トゥッリウス・キケロ……紀元前106年生まれ( ~紀元前43年)。共和政ローマの政治家であり学者でもあるキケロは、ギリシャの「懐疑主義」を学んで同国で出世。一時はローマで執政官にまで上り詰めるも、カエサルやアントニウス等と権力闘争を繰り返し、最期はアントニウスの刺客により殺された。著作『義務について』はルネサンス期の学者たちにも多大な影響を与える。
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「頭がいい人」って何となく憧れますよね。普通の人では気づかないようなことを先回りして対策を打ったり、あるいは抜群の処理能力で数多の問題をこなしたり。
ただ、だからこそ“欠点”があったときには、それが余計に目立ってしまうのもまた事実。わかりやすい例では、戦国時代の石田三成でしょうか。
現代まで伝わる彼の頭脳と施政能力は疑うべくもないところですが、一方で日頃の態度がアレだったために、本来味方だったはずの豊臣恩顧の人々を多く敵にしてしまっていますよね。
本日は古代史で有名なあの国の、そんな感じだったっぽいお偉いさんのお話です。
紀元前106年1月3日は、共和政ローマ時代の学者であり政治家のマルクス・トゥッリウス・キケロが誕生した日です。
共和政ローマとは、帝国になる前のローマのこと。ものすごく簡単に言うと、ユリウス・カエサルが台頭するまでの時代です。
カエサルが偉大すぎて、皇帝同然の印象になっているのでややこしいのですが、実際に皇帝としての役割を果たすのは、その後のオクタヴィアヌス以降です。つまり、カエサルは共和政と帝政の境目なんですよね。
ついでにいうと共和政の前に王政があったので、順番としては王政ローマ→共和政ローマ→帝政ローマ(ローマ帝国)となります。テストに出る……かも?
キケロの名はカエサルほど知られていませんが、この二人は対決したこともありました。つまり、当時はキケロもなかなかのビッグネームだったということです。
いったいどんな生涯を送った人なのでしょうか。
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ギリシアからの亡命学者のもとで「懐疑主義」を学ぶ
キケロは、現在のイタリア中部の町アルピヌム(現在はアルピーノ)に生まれました。
若い頃から自信家かつ野心もあったらしく、「いつかキケロ家の名をスキピオ家より有名にしてみせる」と言っていたそうです。
スキピオ家というのは、キケロの時代から100年以上前に、戦争で活躍したスキピオ・アフリカヌスの家です。アフリカ・カルタゴの将軍ハンニバルに戦って勝った人の子孫……といったほうが、その辺の時代が好きな方にはピンとくるでしょうか。
しかしキケロは軍事方面よりも学問で名を挙げたいと思っていたようで、ギリシアから亡命してきた学者のもとで、「懐疑主義」という理論を学びます。
懐疑主義とは、身の回りのいろいろなものに対して「これはなぜこうなっているのだろう」と疑いながら、その作りや理屈を考えていくというものです。よく小さい子供が親や周りの大人に対して「あれなーに?」「どうして○○は○○って名前なの?」というような質問攻めをすることがありますが、あんな感じです。
その後、弁論や法律を学んだキケロは、当時一番エライ「終身独裁官」の側近が起こしたお金の問題に関する裁判で弁護を行い、勝訴しました。これで彼の望みどおり、望み通りキケロの名は多くの人に知られるようになっていきます。
しかしそれだけでは満足せず、弟と共にギリシアへ留学し、さらに哲学的な物の見方を育てていきました。
そしてカティリナはクーデターを企てる
ローマに戻ってからは財務官としてシチリア島に赴任し、公正な徴税のために力を尽くしています。どこの国でもよくある話ですが、中央政府の目が届かないところで悪さをする代官(みたいな立場の人)がシチリア島にもいたのです。
キケロはその悪代官(仮)を弾劾する演説を行い、さらに名を挙げました。
そして法務官を経て、執政官にまで上り詰めます。
執政官とは、共和制ローマにおける首相のような役職です。かつて友人に言ったように、ここでキケロは「国の代表」というこれ以上ない著名人になりました。
執政官時代のキケロについて、最も大きな功績であり、墓穴にもなったのが「カティリナ弾劾事件」でした。
何となく女性名のような気もしますが、カティリナのフルネームは「ルキウス・セルギウス・カティリナ」で、男性です。元は武官として活躍していたのですが、この頃には借金で首が回らなくなっていたという落ちぶれようでした。
しかもカネを返す当てもなく、苦しい立場になっていたようで、カティリナは「全ての借金を帳消しにする」という公約を掲げて執政官に立候補しようとしました。徳政令みたいなもんですね。
この公約、借金がある人には支持されました。が、当然、貸す側(債権者)から見れば「お前ふざけてんの?」としか思われません。特にカティリナがお金を借りていた相手である元老院(国会と内閣を足して割ったような感じの組織)の議員たちは大反対。
進退窮まったカティリナは、現職の執政官であるキケロや、反対する元老院議員をブッコロして、強引に執政官になろうとします。要するにクーデターです。
国のトップであっても法は厳密に――というローマの厳格さ
暗殺計画は、密告によって当局にバレ、5人いた共犯者は即刻処刑。当時ローマにいなかったカティリナは一時難を逃れたものの、キケロがカティリナを徹底的に弾劾する演説を複数回行ったことで、罪は免れられませんでした。
カティリナは自棄になって3000人の兵とともにクーデターを再び試みたが、あっさり鎮圧されて殺されています。こうして「クーデターを防いでローマを守った」ということで、キケロは元老院から「祖国の父」という称号をもらいました。
しかし、執政官としては失敗でした。
共和政ローマでは「ローマ市民は、他の市民による裁判を受けない限り、死刑に処されることはない」という法律があったのです。反乱鎮圧という形だったとはいえ、実質的には「キケロという個人がカティリナを力尽くでブッコロした」ことになってしまうため、「それって法律的にどうなの?」という疑念が市民の間に巻き起こりました。
そして「キケロは執政官という立場を濫用し、越権行為に及んだ」と批判されるようになってしまいます。
「国のトップであっても、法の下に行動しなければならない」という考えが、紀元前のローマには浸透していたということになりますね。すげえ。
こうして訴追されたキケロは、執政官の職とローマという町から退かざるを得なくなりました。
しかし、やはりそれまでの功績のほうが大きいと見られたか、追放の翌年に召還されています。
殺されても文句の言えない「プロスクリプティオ」に処される
キケロが帰ってきた頃、ローマは微妙な時期でした。第一回三頭政治に入りつつあるなど、政界の変化が起きており、何というか……敵を増やすような言動が多い割には、優柔不断なところがあり「アンタ何がしたいんじゃい?(´・ω・`)」という印象があります。
カエサルvsポンペイウス・元老院の争いでは後者についたものの、カエサルが不利な状況になってからのことだったため、「日和見するようなヤツは信用できない」と思われてしまいました。
用心深いのは悪いことではないですけどね。
しかも元老院派が不利になってから「やっぱそっちにつくのやめますね^^」(※イメージです)と言い出し、その他の言動でも恨みを買い、危うくブッコロされる寸前まで行っています。
カエサルが勝利してからはお咎めなしになったのでめでたしめでたし……かと思いきや、何かとキケロに忠告してくれていたカトという人物が、カエサルと対立して自害したとき、その生き様を称える本を出すというケンカの売りようです。
幸い、このときはカエサルも反論するような本を出しただけで済みました。
その後、徐々に独裁者同然になっていくカエサルに対し、キケロは不安を抱いていた節があります。
カエサルが暗殺されたときも、暗殺者側を支持していました。カエサルの後継者になろうとしたアントニウスに対抗し、カエサルの養子だったオクタヴィアヌスを支持し、アントニウスを弾劾する演説を行いました。
しかし、当のオクタヴィアヌスとアントニウスが第二回三頭政治を組んだため、キケロはそれ以上アントニウスを咎められなくなります。
ボロクソに言われ続けたアントニウスは、当然この機会を見逃しませんでした。オクタヴィアヌスに「あの野郎とっちめたいんだけど、協力してくれるよね?^^^^^^」(※イメージです)とゴリ押しし、ついにキケロをローマの法的処置でもかなり重い「プロスクリプティオ」にしてしまいます。
これは「こいつは国家の敵なので法の保護に値しない」という宣言のことです。その名簿のことも指します。日本でいえば「村八分」のようなものでしょうか。二分(葬儀と火事)の猶予すらありませんが。
法の保護を受けられないということは、キケロをブッコロしたとしても、お咎めなしで済むということになります。
アントニウスの送った刺客により暗殺され、首と右手を取られ
キケロはブルートゥス(「お前もか」の人)の勢力圏だったマケドニアに向かいましたが、アントニウスの送った刺客により暗殺され、首と右手を取られてしまいます。
ローマに持ち帰られたそれは、フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)に晒され、アントニウスはようやく溜飲を下げたのでした。
まあ、その後アントニウスはクレオパトラと愛人関係になったことで、ローマ人の信頼を失い、さらにオクタヴィアヌスとの争いに敗れて不本意な死に方をするのですが。
勝ち残ったオクタヴィアヌスは、その後元老院から「アウグストゥス(尊厳ある者。後にローマ皇帝の意)」の称号を得て、唯一最大の権力者となりました。
数十年後、オクタヴィアヌスは孫たちがキケロの著作を読んでいるのを見て、「彼は真の教養人で、国のことを真剣に考えていた」と言っていたとか。孫たちは「ジーちゃんは短気だから、粛清した相手の本なんて読んでたら起こるに違いない」とビクビクしていたらしいですけれども、その反応を見て安心したそうです。
実はオクタヴィアヌスは生まれつき病弱な質で、軍事向きではありませんでした。キケロが見出さなければ、とても皇帝という地位まで上り詰めることはできなかったでしょう。そりゃ暗殺を防げなかったことを後悔するはずですよね。
オクタヴィアヌスがアントニウスを討ったのは、もちろん政争に勝つためでしたが、「自分を世に出してくれた恩人」であるキケロの仇討ち、という面もあったのかもしれません。
長月 七紀・記
参考:マルクス・トゥッリウス・キケロ/Wikipedia