日本はずっと”日本”なのでしっくりきませんが、他の国では国名が変わるというのは珍しい話ではありません。
わかりやすいのは中国で、王朝が変わるたびに名前が変わっていますよね。
漢字圏であれば「ああ、中国周辺の話かな」なんて見当もつきますけども、他の地域だと全く違う国名になることもよくあります。
本日はその一つ、誰もが知っているあの国の昔々のお話です。
お好きな項目に飛べる目次
7年間のガリア戦争 カエサル自身が記録を残す
紀元前52年10月3日――ユリウス・カエサル率いるローマ軍がアレシアの戦いでガリア軍を破り、傘下に加えました。
この”ガリア”がどこのことかすぐにわかった方は、ローマ帝国のファンの方ですね。
2004年アテネオリンピックの開会式を見ていたらわかるかもしれませんが、もう15年も前なので厳しいでしょうか。
そろそろ「じれったいわ!」というツッコミが聞こえてきそうですので、話を進めますとフランスです。
より正確にいうと、北はオランダの一部・東はドイツの一部を含むかなり広い地域で、ローマの一州としての地域は概ね現在のフランスにあたります。
今でこそイタリア語もフランス語もラテン語をベースにしていたり、料理がおいしい・観光名所が多い等々共通点も多い国同士ですが、この時代のフランスにはガリア人という別の民族が住んでいたため、戦争になったのでした。
むしろこの戦いでローマが勝ったので、ラテン民族の移住や文化の浸透が進み、現代のような共通点が増えたというべきでしょうか。
アレシアの戦いを含めた一連の戦争を”ガリア戦争”といいまして、カエサル自身が”ガリア戦記”として記録を残しています。
わかりやすくてありがたいですね。
しかしさすがのカエサルも、このときは「来た、見た、勝った」とはいきませんでした。
総計7年ほどかけてやっと最終的な勝利を収めています。
ケンカを売ったのはカエサルのほうからだったので、途中で引くわけにもいきませんでしたしね。
ついでにガリア人だけでなく、後々ローマ帝国の大きな障害となるゲルマン人やらガリア人に協力していた古代ブリトン人(現在のイングランドに住んでた人たち)との戦いもあったので、話がめんどくさくややこしく長くなっていきます。
ここでは全部ひっくるめて”○○人”としていますが、実際にはもっと細かい部族に分かれているからです。
んでもってその部族ごとに帰順したり反乱したり鎮圧したりを繰り返していたため、こんなに時間がかかったのでした。
リーダーを処刑され統制の効かなくなったガリア人が…
そうしたすったもんだの末、紀元前53年に大きな動きが起こります。
ガリア人のリーダーであったアッコ(ちゃんではない)という人物がカエサルに敗れ、処刑されたのです。
この人は精神的な柱でもあったらしく、彼の処刑後、ガリア人たちは一枚岩とはいえない状態になってしまいました。
そして一部のガリア人がケナブム(現在のオルレアン/ジャンヌ・ダルクが百年戦争で奇跡を起こした町)でローマ人をブッコロしまくってしまったため、ローマ軍の怒りを爆発させてしまいます。
なんでこういうときって後先考えない人ほど行動的なんですかね。
このときカエサルは政治上の理由でローマに一時帰国していたのですが、対処すべく急いでガリアへ戻ってきます。
これに対し、ガリア側は「やっべーアイツ戻って来たよどうするよ!?」「構わん何もかも燃やしちまえ! 汚物は消毒だー!」(※イメージです)というこれまた後々のことを全く考えない行動に出ます。
もうちょっと軍事的な単語にすると、焦土作戦を実行しました。
焦土作戦ってロシア帝国のイメージが強いですけど、紀元前からあったんですね。
ガリア人4万のうち9.5割を大殺戮
しかしその程度でローマ軍は引っ込みません。
それどころか、包囲戦に至ったアウァリクムという舌を噛みそうな名前の町で、軍民合わせた4万のガリア人に対し9.5割をブッコロすという大殺戮までやってのけました。
これ、別に焼き討ちしたわけじゃないんで……織田信長もドン引きでだわ。
アウァリクムは大きく豊かな街だったので焦土作戦を免れていたのですが、そのためローマ軍が攻略に手間取った&何としても落とさなくてはならなかったという戦略上の理由もあり、上記の事情も絡んでいたでしょうね。
そうしてアウァリクムという大きな足がかりを得たローマ軍は、ガリア軍と勝負を決するべくアレシアの戦いに臨みます。
そんな重要な場所の割に、フランスのどこだったかがはっきりしていないという奇妙なことになっているのですけども、古代史だから仕方ない。
ちなみにアウァリクムは、現在ブールジュというフランス中央部の都市になっています。
上記のような目に遭った割にはその後も発展していて、そのうちカトリックのお偉いさんが着任するところ(司教座)とされたため、世界遺産になるほどの立派な大聖堂が建っています。
なんだか不思議な感覚ですね。まぁ、どこの国でも立派な都市には血生臭い逸話がセットかもしれません。
「墓標」とか「刺」と呼ばれていた仕掛け
話を戻しまして、アレシアの戦いです。
こちらも要害として作られた都市だったので、カエサルは力づくで攻めても無駄と考え、包囲戦でじりじり削っていくことにしました。
紀元前52年の8月だったといわれています。
土塁を築いたり、壕を何重にも掘って底に罠を仕掛けたり、実にえぐい方法をカエサル自ら記録していて、もうね、エグい。
そうした仕掛けは「墓標」とか「刺」と呼ばれていたそうなのですが、落とし穴の底に串刺しになるように仕掛けたものを「百合」と名付けたのはいったいどうしてなんだってばよ。
カエサルは文人としても有名ですが、この辺のセンスだけはチンプンカンプンですわあ。
そうして下準備を整えながら、ローマ軍は自分達用の食料を運び込み、事態が動くのを待っていました。
6万人×1か月分を用意したそうですので、多分アレシアの町からもその様子が伺えたことでしょう。なんて精神攻撃だ!
一方、町の内部では仲間割れがおき、元々アレシアに住んでいた部族が追い出されるという「な、なにを言っているのか(ry」という状態に。
彼らはローマ軍に「奴隷になってもいいですから、命だけはお助けを!」と懇願しましたが、これは無理な頼みというものでした。
その後、追い出された人々がどうなったかの記録はないようですので、本当に一瞥した程度で全く相手にしなかったのでしょう。
敵の援軍も難なく退けガリアを平定
そのうちアレシア側に救いの神が訪れます。
26万ほどの援軍が来たのです。
飢えに苦しむ内部とは違い、あらゆる意味でやる気満々の彼らはさっそくローマ軍へ攻撃を仕掛けました。
が、そんなことはお見通しのカエサル以下ローマ軍は、これを難なく退けます。
一時は戦線を崩されそうになりましたが、カエサル自ら緋色のマントを身につけて後詰に出てくると、それに釣られたガリア軍は即座に進行方向を変えました。
しかしそれこそカエサルの思う壺。
他のローマの将軍たちが横から後ろからガリア軍を突き崩し、案の定蜘蛛の子を散らすよりも酷い状況に陥ります。
ガリア軍のトップだった人物は捕虜となり、無事だった部隊もそれを知って撤退。
こうしてガリアはカエサルのものとなり、一層の権力を握る代わりに元老院と愉快な仲間達から警戒されていくことになりました。
★
そしてその後、「賽は投げられた」に始まるローマ内戦が起こり、カエサルが勝ち、ローマは共和制から帝政へ変化していくというわけです。
つまり、ルビコン川を渡る前のカエサルは現在のフランスでいろいろやっていたんですね。もしローマ内戦が長引いていたら、カエサルはローマの独裁官(実質的にはほぼ皇帝)ではなくガリアの皇帝にでもなっていたのかもしれません。
そうしたら今頃「フランス皇帝」はナポレオンではなく、カエサルのことをさしていたんですかねえ。ちなみにフランス語だと”セザール”になるそうです。何か弱そうですね。
カエサルのままでよかったよかった。
長月 七紀・記
【参考】
アレシアの戦い/Wikipedia
ガリア/Wikipedia