1699年5月12日は、ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョの誕生日です。
後のポルトガル宰相となる人物で、推定マグニチュード9.0とも言われるリスボン地震(リスボン大震災)に対応しました。
地震大国に暮らす我々には他人事とは思えない出来事ですよね。
今回は彼の生涯を追いかけながら、その点についても見ていきましょう。
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経済的苦境に追い込まれていたポルトガル
セバスティアンは、ポルトガルの首都・リスボンの小さな貴族の家に生まれました。
長じてからヨーロッパ有数の名門・コインブラ大学で学んだ後、軍に入って最初の結婚。
若い頃から能力を認められていたようで、大使としてロンドンやウィーンでの駐在も経験しております。
こうして他国と自国の違いや差を肌で感じとってきたのでしょう。
当時の王妃マリア・アナがオーストリア・ハプスブルク家の出身だったことで目をかけられましたが、その夫である国王ジョアン5世には嫌われてしまいました。
男のプライドみたいなものも関係していたかもしれませんね。
しかし、次に王位を継いだジョゼ1世はセバスティアンを最初から信頼し、外務大臣の後、国政全体を任せていきます。
当時のポルトガルは、同盟国であるはずのイギリスによって経済的に苦しい状態になっていました。
1703年に結ばれたメシュエン条約により、ポルトガルのワインを買ってもらう代わりにイギリスの毛織物を優先して輸入しなくてはならなかったため、国内の毛織物が大打撃を受けてしまったのです。
ちなみに、ポルトガルの儲けよりイギリスの儲けのほうが大きく、それが産業革命の資金になったといわれています。
つまりイギリスは同盟国を踏み台にして世界の工場になったわけですね。ゲスい。
まあ、ポルトガルの財力も南米その他の植民地からぶんどったものなので、「金は天下の回り物」といったところですが。
推定マグニチュード8.5-9.0のリスボン地震
織物とは少し違いますが、ポルトガルには編み物にゆかりのある習慣がいくつか存在します。
10代半ばくらいから親戚や知人が嫁入り道具を少しずつ贈るという習慣があるのですが、その中にも手編みの品はよく選ばれるのだとか。
また、「ポルトガル式」という一見アクロバティックな糸のかけ方をする編み方もあります。そのくらい、編み物や毛糸が生活に根付いているわけですね。
それが敵国ではなく同盟国のイギリスにやられたというのは、笑うに笑えません。
そんなこんなで苦しい財政を立ち直らせるべく、セバスティアンは多方面の対策を行いました。
工業・商業の推進や軍の再編、母校コインブラ大学に新しい研究施設を作ったり、幅広い視点で改革を行ったのです。
が、その手を遮るかのように、彼が宰相になったのと同じ年、リスボンを大きな災害が襲いました。
1755年11月1日のリスボン大地震です。
当時のリスボンは「都市計画って、何それ?」状態で、空いてる土地にガンガン建物を造っていたため、崩れた建物や火災旋風に巻き込まれて亡くなった人も多かったとされています。
27万人いた人口のうち1/3以上が亡くなったといわれていますから、その光景たるや「想像を絶する」という言葉ですら生温いでしょう。
ちなみに、ジョゼ1世も王妃とともに被災し、一時馬車の中に閉じ込められてしまったことで、その後、重度の閉所恐怖症になってしまったそうです。
もともと政治には積極的とはいえない王でしたが、これでは遅かれ早かれ政治から遠ざかっていたでしょうね。
犠牲者の遺体を沖合で水葬し、疫病を防ぐ
公共施設も多く被害に遭い、特に美術館や宮殿に被害が出たことで多くの名画や彫刻、大航海時代の記録が失われてしまいました。
カルモ修道院など、今も再建できていない場所があるほどですから、被害の大きさが偲ばれます。
かつて大きな聖堂であったと思われる場所が、この地震以降は野ざらしのままになっていますが、石材の砂塵を浴びた白と青空が美しく、観光客は多いようです。
美しすぎて廃墟という言葉がそぐわないといいますか、西洋な雰囲気のRPGなどでありそうな光景なのが人気なのでしょうね。
まぁこれは、ポルトガルという国そのものがその後アレな感じだったからというのもありますが……。
この大災害に対し、セバスティアンは常識を捨てた対策を行います。
まず、犠牲者の遺体を沖合で水葬し、疫病の蔓延を防ぎました。
キリスト教では死後の復活のために土葬を行いますから、水葬は背教行為とも呼べるものでした。
セバスティアンはそれを押し切って行ったことにより、官民ともに建物の再建へ全力を尽くせるようにしたのです。
このときからリスボンの街は区画整理された……ことになっているのですが、現在の地図を見るととても碁盤の目状とはいえないような……(´・ω・`)
まぁ、セバスティアンの時代から200年以上経っていますので、その間に作られた道も多いのでしょうけれども。
暗殺未遂事件の関係者を容赦なく処刑
こうしてリスボンの街の復興を手がけたセバスティアンをジョゼ1世はますます信頼しました。
というか、自分が遊びたいがために仕事を押し付けました。もう嫌な予感がしますね。
案の定、「何でアイツだけあんなに力を持っていい思いをしてるんだ! そんな状態を認める王も王だ! ブッコロ!!」(超訳)と考える貴族が大多数となり、ついにジョゼ1世とセバスティアンの暗殺未遂という大事件が起きます。
経緯がそもそも逆恨み同然ですし、国王と宰相を手に掛けようとするのは重大な反逆です。
そのため、セバスティアンは少しでも関係があるとみなした者を容赦なく捕らえ、拷問の後に処刑していきました。その中にはジョゼ1世の異母兄弟姉妹もいたようで、彼の断固とした姿勢が窺えます。
また、イエズス会も暗殺に関与したとして、財産没収の上ポルトガルから追放しました。
上記の水葬についてもそうですが、金融を握っていたユダヤ人の待遇を見直すなど、セバスティアンはたびたびイエズス会と対立していたため、これを好機としてまとめて片付けようとしたのでしょう。
当時のカトリックからすれば「お金=汚いもの」「ユダヤ人=ユダの末裔だから汚い奴ら」→「なら汚いものは汚い奴らに扱わせよう!」というのが当たり前だったので、それを否定するセバスティアンが許せなかったのも無理はありません。
イベリア半島の独裁者は割と穏やかな天寿をまっとう
また、セバスティアンは「ポルトガル国内に黒人奴隷を連れてきた場合は、即座に開放すること」という制度を作りました。
人道的な感じもしますが、これはただでさえ人手不足の植民地で、さらに労働者が減るのを防ぐという合理的な理由のほうが大きかったようです。その辺はまあ、この時代の人だから仕方ないですね。
こうして国王の代わりに多方面の改革を行ったセバスティアンでしたが、その反動もまた多岐にわたりました。
ポルトガル最大の植民地であったブラジルは、次第に独立の兆しが見え始めます。
また、ジョゼ1世が亡くなって娘のマリア1世が国王になると、宮廷どころから「女王から20マイル(約32km)以内に近づくな」とまで言われるほど嫌われてしまいました。
領地を取られたわけではなかったので、その後は田舎で穏やかに暮らしていたそうです。
マリア1世が近所にやって来たときは、セバスティアンのほうが出ていかなければなりませんでしたが、独裁者としては静かな晩年だったといっていいでしょう。
まあ、仕事をちゃんとしてて庶民から(比較的)恨みを買っていないのですから、当たり前ではありますけども。
イベリア半島の事情を知ると、「独裁者」の定義やイメージがちょっと変わるような気がします。
長月 七紀・記