シルウェステル2世

オーリヤックにあるブロンズ像/wikipediaより引用

フランス

初のフランス人ローマ教皇・シルウェステル2世は勉強しすぎて貧乏くじ

1003年(日本では平安時代・長保五年)5月12日は、第139代ローマ教皇・シルウェステル2世が亡くなった日です。

この人は、初めてのフランス人教皇でもあります。

となると、いかにも当初から「ローマ教皇に、俺はなる!!」といった野望を抱いていたように思えますが、実はそうでもありません。

そもそも彼の場合、本人に野心があったのかどうかもよくわからんところです。

いったいどのようにして、カトリックの頂点の座に座った人なのでしょうか。

 

教皇になる前は「ジェルベール」

シルウェステル2世は、教皇になる前は「ジェルベール」という名前でした。

生年はハッキリしていませんが、945~950年ごろと推定。フランス中部、オーヴェルニュ地方の庶民の子供だったといわれています。

また、幼いころにオーリヤックという町の修道院に入ったことはわかっています。親を亡くしたか、親の意向で入れられたかのどちらかでしょうね。

そこでとある貴族の目に留まり、スペインへお供して勉強に励みました。

ローマにも同行し、969年に神聖ローマ皇帝オットー1世と、教皇ヨハネス13世に謁見。

特にオットー1世に随分と気に入られたらしく、

「ウチの息子(オットー2世)の教育係をやってほしいから、しばらくランス(フランスの町)で勉強してきて」

と言われて、その通りにしました。

ランスでも勉強に励み、教師として認められるまでになっています。

後のフランス王ロベール2世なども彼の生徒だったことがあるほどですから、「複数の国の王様の先生だったことがある(しかも本人は教皇になる)」というのは、なかなかスゴイ話ですね。

そして981年にイタリア・ラヴェンナで開かれたオットー2世主催の討論会で見事な論説を行い、皇帝のお眼鏡に適いました。

褒美として、同じくイタリアのボッビオという町の修道院長に任じられています。

 

ヨハネス15世によって破門にされてしまう

しかし、ここでは仕事が忙しすぎて学問をやる暇がなく、彼にとってあまり楽しい生活ではなかったようです。

そのせいか、前の修道院長などとちょっとした揉め事にもなりました。

オットー2世が983年に亡くなってからは、ランスに戻ってまた学問・教育に専念しているので、聖職者より教師のほうが好きだったのでしょうね。

その後、ランスの大司教がオットー2世の後継者争いに関わったため、ジェルベールも政治的な場に少々絡んでくることになります。

そうこうしているうちに、フランスでも王家であるカロリング家が断絶してしまい、ユーグ・カペーがフランス王となってカペー朝が始まりました。

が、周辺は相変わらずバタバタ。

そこから二年ほどして、今度はランスの大司教が亡くなります。後任には一度、ユーグに任命された者が就いたのですが、ユーグを裏切ったため、ジェルベールが代わって大司教になりました。

バチカンや教皇(このときはヨハネス15世)からすると、これは面白くないことです。

カトリック全体のトップからすれば、フランスだけ自国内で人事を行うのは腹が立ちますし、ほかへの示しがつきません。

そのため、ヨハネス15世はジェルベールを破門にしてしまいました。

自ら望んで大司教になったわけでもないのに、とんだトバッチリ。後に無効とされましたが、しばらくの間は揉めておりました。

ちなみにシュルベールはこの件に関してオットー3世の世話になったため、家庭教師を務めて恩を返しています。

オットー3世/wikipediaより引用

 

「自分の意に沿う人物」として教皇に押し上げられた

そのうちヨハネス15世が病死し、オットー3世は親戚のブルーノをグレゴリウス5世として教皇にしました。

彼は初めてのドイツ人教皇だといわれています。

それからしばらくフランス王がらみのゴタゴタが起きたのですが、グレゴリウス5世が三年程度で亡くなってしまったため、オットー3世は次に「自分の意に沿う人物」としてジェルベールを教皇にするのです。

教皇や皇帝・国王というと血なまぐさい政争の末に就くもの、という感もありますが、ジェルベール→シルウェステル2世はそうではなかったことになりますね。

なお「シルウェステル」という名称は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世に洗礼を授けたシルウェステル1世からとったそうです。元の名とも何となく似てますね。

シルウェステル2世は、生徒でもあるオットー3世をサポートし、神聖ローマ帝国内の政策にも関わりながら、カトリック教会の教会改革や教育の振興をしました。

またハンガリー王イシュトヴァーン1世へ王冠を授けてキリスト教化するなど、東欧への布教にも積極的だったとされています。

長いカトリック教会の歴史の中で、学問を重んじた教皇は何人かいますが、シルウェステル2世はその先駆けともいえる存在です。若い頃から勉学に励んでいたからでしょうか。

古典文学も重んじていますが、数学や天文学にも造詣が深い「理系の教皇」でした。

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