ユーグ・カペー

ユーグ・カペー/wikipediaより引用

フランス

ユーグ・カペーから続くフランス王家の血筋~欧州にも存在した千年王家とは

日本の皇室が尊ばれている理由のひとつに「最も古くから続いている君主の家柄」というものがあります。

神話の時代から数えれば2000年以上。

実在が確定しているところからだと1500年ぐらいですね。

そう聞くと、こんな疑問もわいてきませんか?

「他の国で1000年続いているような家柄はないの?」

実はあります。

996年10月24日に亡くなったフランス王ユーグ・カペーの血筋です。

これだけだと何の話やらさっぱりわからんという方が多いと思いますので、まずはフランスの歴史上、どんな王朝があったのかをサラッと確認しておきましょう。

ユーグ・カペー/wikipediaより引用

 

フランス王朝の主な流れ 6つのうち5つが血縁

フランスの歴代王朝を順に並べると、以下のような流れになります。

①メロヴィング朝(フランスの前身フランク王国を作った王朝)

②カロリング朝(メロヴィング朝の王様を蹴落としてできた王朝)

③カペー朝 ←今日ここ

④ヴァロワ朝(百年戦争~ユグノー戦争をやってた頃)

⑤ブルボン朝(ユグノー戦争以降の王朝 / フランス革命で終了へ)

⑥オルレアン朝(ブルボン家の支流 / フランス革命後、王政復古でルイ・フィリップという人が王様になった)

つまり、6つあるフランス王朝の3つめを創始した人がユーグ・カペーだということです。

厳密にいえばメロヴィング朝とカロリング朝の時代はフランク王国だったり、途中でフランク王国が分裂して西フランク王国になってたりするんですが、「だいたい現在のフランス周辺でのお話」という理解で問題ないかと思います。

 

40年間で3度王が代わり うち2回が事故死って

ユーグ・カペーは、現在のベルギーにあたる地域の豪族でした。

カペーというのは彼個人のあだ名で、家の名前としては「ロベール家」といいます。

ロベール家は、ユーグの祖父ロベール1世などがカロリング家と対抗したこともある大勢力です。

そもそも当時のフランス王はさほど実権がなく、地域ごとに有力な貴族が治める「公国」という小さな国の集まりという状態でした。

また、北方民族(ヴァイキング)の脅威にも晒されており、その侵入を防いだユーグのご先祖・ウードに対して、領主たちが

「あなたのほうが王にふさわしいので、西フランク王になってください!」

と推挙することがたびたびありました。

ユーグの祖父ロベール1世もその一人で、これによりロベール家は領主たちの中でも抜きん出た存在になっていたというわけです。

そんな時代で、ユーグは十代半ばのときに父が亡くなり、急遽、家督を継ぐことに……。

ユーグはいきなり部下にナメられ、領地を削り取られてしまいます。

このときは伯父であるケルン大司教(カトリックのお偉いさん)の協力を得て、ユーグは家名を守り抜きました。

一方、この頃の西フランク王国の王位は次々と変わっていました。

当時の寿命が短かったこともありますが、ユーグが生まれてからフランス王になるまでの約40年間に、三回も王様が変わっています。

しかもそのうち二回は事故死です。本当に事故だったんですかね……。

986年にカロリング家の西フランク王ロテールが亡くなり、その後を継いだ息子のルイ5世も翌987年に死去。

ロテール (西フランク王)/wikipediaより引用

カロリング家に近い血筋の男性がいなくなってしまったため、ウードの時と同じように

「次の王様はユーグこそふさわしい!」

と領主たちに推され、彼が新たな西フランク王としてランス大司教のアダルベロンから聖別を受けました。

聖別とは、キリスト教の儀式のひとつです。

受ける対象を「聖なるものとみなす」と宣言するもので、この場合、イメージ的には「カトリック教会はこの人を王様として認めます」と宣言したことになります。

これはフランク王国を作ったクローヴィスという王様から続いている儀式で、フランス王国にとっても最重要とされたものです。

この後しばらく経って百年戦争が起き、ジャンヌ・ダルクが登場して、戦況がフランス有利になったところで王太子シャルル7世に「ランスで戴冠式を!」と勧めるのですが、それはこの伝統からきています。

「フランスではランスで戴冠式をあげない限り、『王を自称してるだけの人』みたいな扱いをされる」といったほうがわかりやすいですかね。

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