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【ユーグ・カペー】
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王位についてから亡くなるまでの10年は戦争に追われ
ユーグが選ばれた理由としては、
・妃アデライデがカロリング家の血筋
・父方の祖母がカール大帝(シャルルマーニュ)の子孫
なども考えられます。
日本的なイメージでいえば「征夷大将軍の家柄で母方からも高貴な血を引いている人なら、国政を任せても問題ないに違いない!」みたいな感じでしょうか。
日本では天皇が征夷大将軍を任命しますけれども、フランスだとランス大司教(とローマ教皇庁)が王様を聖別して王様と認める感じですね。
ただし、すぐにフランス全土が納得したわけではなく、ノルマンディーやブルゴーニュ、アキテーヌといった各公国では、ユーグの戴冠に不服を持つ者も少なくない状態でした。
そのため彼は、王位についてから亡くなるまでの10年ほど、戦いを余儀なくされています。
反ユーグ派同士も一枚岩ではなく、結果としてカペー朝とフランス王位は続いていくのですが。
もし彼らに「とりあえずユーグをぶっ潰して、後のことは後で決めよう!」という概念があったら危なかったかもしれません。
ユーグ以降のフランス王は、全て血がつながっているからです。
ユーグが画期的だったのは、存命中から「次の王は息子のロベールだ」ということを示すため、ロベールを共同王位につけたことです。
これによって世襲制を定め、王権と王位を安定させました。
これでロベールに男子が生まれなかったら世襲制をひっくり返されたでしょうけれど、カペー朝は「カペーの奇跡」と言われるぐらい男子を輩出し続けたのですね。
他国の歴史と比べると、文字通り「奇跡」に近い。
前述の通りユーグには母方からシャルルマーニュの血も入っていたため、「シャルルマーニュの血脈が残っている」といえないこともないですね。
冒頭で述べたヴァロワ朝もブルボン朝も、元はカペー家の支流でした。
子孫たちは国をまたいで1000年以上残っている
フランス革命でブルボン朝の治世は終了。
ルイ16世の子供たちは子孫を残さずに亡くなったため、ブルボン家=フランス王家は滅びた……と、一般的には受け取られていますよね。
しかし、オルレアン朝のルイ・フィリップの子女には他国の王家に嫁いで子供を残した人もいるので、厳密に言えば今もまだブルボン朝、そしてユーグ・カペーの血は続いている、と見ることもできます。
ついでにいうと、現在のスペイン王室であるボルボン家はルイ14世の孫の血筋なので、これまたユーグの末裔ということになります。
要するに、ユーグの子孫は国をまたいで1000年以上残っているということになりますよね。こいつはすげえや。
「そんなこと言ったら一般人だってそうだろ」と言えなくもないですが、記録が残っているかどうかというのはやはり重要ですからね。
日本で例えるとすれば、源氏・平家の支流の家が続いている感じでしょうか。
源氏も平氏も元は皇室ですし。
何かとややこしいヨーロッパの王侯貴族関係ですが、そう考えると少しはわかりやすくなる……かも?
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長月 七紀・記
【参考】
福井憲彦『教養としての「フランス史」の読み方』(→amazon)
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)