1886年5月17日は、スペイン国王アルフォンソ13世が誕生した日です。
スペインがフランシスコ・フランコによる独裁に突入する前の王様ですね。
そのため教科書的には影が薄いのですが、個人として見るとなかなか濃い人でもあります。
さっそく生涯を見ていきましょう。
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母のお腹にいるときに国王が死亡
アルフォンソ13世は、生まれながらにしてスペインの主となった稀有な国王です。
生まれる半年前に父・アルフォンソ12世が死亡。
その後は姉・マリアが暫定的に国王になっていたのですが、女系になると王朝が変わってしまうため、母后マリア・クリスティーナの出産にスペインの将来がかかっていたのです。
当時は出生前診断もありませんし、ときの首相はアルフォンソ13世が生まれたとき男泣きしたとか。さぞかし胃も痛かったことでしょう。
王子をすっとばした王の誕生に、首都マドリードも大変な祝賀モードになったといいます。
幼少どころか乳児に政治はできませんから、しばらくの間は母であるマリア・クリスティーナ王太后が摂政を務めることになりました。
アルフォンソ13世は高級軍人・貴族・聖職者から帝王学を学んで育ちます。
特に語学が得意だったようで、独・仏・英・伊語を習得したとか。
16歳からは親政を始め、ここから名実ともにスペイン王としての人生が始まります。
中でも大きな出来事は、19歳のときにイギリスへ旅行し、将来の妃となるヴィクトリア・ユージェニーと出会ったことです。
ヴィクトリアをいたく気に入ったアルフォンソ13世はさっそく結婚したいと思ったようです。
が、いくつかの理由で世論からは反対されてしまいました。
ヴィクトリアの持つ血友病因子
スペインはカトリックで、イギリスは英国国教会であるという宗教の違い。
また、ヴィクトリア・ユージェニーがヴィクトリア女王の孫であり、血友病因子を持つ可能性が高かったことなどが主な理由です。
悲劇の血を継ぐヴィクトリア「血友病」の恐怖がヨーロッパを襲う
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血友病とは「出血をした際、血が固まりにくい」という病気です。
血液は自ら固まり、出血を止めようとする働きがあります。
しかし、血友病は血が固まる成分が働きにくい、あるいは欠けているために、ちょっとした怪我でもなかなか血が止まらなくなってしまうのです。
劣性遺伝のため、確実に遺伝するとは限らないのですが、突然変異によって発病することがあります。
現在の日本でも、5,500人前後の血友病患者がいます。
現在は医療の進歩により、血友病を患っていても健常者とほぼ同じ生活を送ることができるようになりましたが、20世紀の初頭ではそうもいきません。
周囲が懸念を抱くのも無理のないことです。
しかしアルフォンソ13世は諦めませんでした。
結婚式に爆破事件! 翌日に闘牛を見物
最終的にヴィクトリア・ユージェニーはカトリックに改宗した上で、名前の読みもスペイン語の「ビクトリア・エウヘニア」に変更。
スペイン王室に嫁ぎました。
それでも「本当にカトリックになったのかアヤシイ!」と疑う人はいたようで。って、もはや何も信じられないような……(´・ω・`)
結婚式が行われたのは1906年でした。
大聖堂での儀式の後、慣例に従って若き国王夫妻はマドリードでパレードを行いました。
悲劇が起きたのはこのときです。
警備と人混みをかきわけ、とある男が爆弾を投げ込むという大事件が発生したのです。
運よく国王夫妻は無事でしたが、警備の兵と観客31人が命を落としました。
警備兵の血がヴィクトリアのドレスにまで飛んだといいますから、本当に危機一髪の出来事でした。ヴィクトリアもアルフォンソ13世も、筆舌に尽くしがたい恐怖を感じたことでしょう。
犯人は捕まる前に自殺。
狙いはハッキリしていませんが、その後の調べで無政府主義者だったということがわかりました。
翌日、国王夫妻は闘牛見物をする予定になっていました。
危険を回避するため当然ながらキャンセル――とはならず、ヴィクトリアはあえて予定を敢行することで、自らの勇気を示し堂々とした態度をとりました。
これによりこの結婚に反対していた人も、彼女に好意的になったようです。
五男二女に恵まれ最初は夫婦仲も良好
結婚後、二人は8年の間に五男二女に恵まれ、当初夫婦仲は良好でした。
うち一人は死産、二人は血友病になってしまったが、これは仕方のない話です。
しかしアルフォンソ13世は血友病を持った子供を産んだことで、ヴィクトリアを遠ざけるようになってしまいます。
それは予めわかっていたはずですし、自分がプロポーズしているわけですし。
わざわざ言葉も文化も違う国に嫁いできてくれたのに、あんまりな話です。
その後アルフォンソ13世は手当たり次第に他の女性へ手をつけ、庶子を生ませていきました。
中にはヴィクトリアの従姉でスペイン王族と結婚していたベアトリスという女性もいましたが、ベアトリスは毅然と拒んだようです。そりゃ、従妹の夫を寝とるようなことはできませんよね。
しかしこれはスキャンダルとして世間に受け止められ、マリア王太后の意向でベアトリスと夫・子供はイギリスへ追い返されてしまいました。
つまり、アルフォンソ13世は自らの家庭と妻の親戚の家庭、両方を壊したことになります。ひでえ。
第一次世界大戦で中立国のスペインは景気向上
国王一家の状況も良いとはいえませんでした。
世界情勢もまた暗雲が立ち込めていきます。
やがて第一次世界大戦が始まったのです。
アルフォンソ13世は母后がオーストリア出身、妃がイギリス出身ということで、スペインとしては中立を保つことを決意します。
その配慮を王妃自身にも向けてやれと。
中立国のメリットである軍需産業で儲け、スペインは大航海時代以来の景気といわれるほど儲けました。
しかしその恩恵を受けたのはお金持ちだけで、インフレ&日用品の価格高騰によって庶民の懐事情は悪化していきます。戦時あるあるですね……。
戦後、母方の親戚である最後の皇帝・カール1世の妻子を保護しているので、優しさがないわけではなかったようなんですけども……。
カール1世は第一次世界大戦の敗戦に伴う譴責(けんせき・悪行を責められること)によって流刑になっており、最後の流刑先であるポルトガル領マデイラ諸島・フンシャルで亡くなっていました。
崩御した当日は、アルフォンソ13世はまだ知らせも届いていなかったのに「そうしなくては」と思ったんだとか。
虫の知らせってヨーロッパでもあるものなんですかね。
フランコの台頭でスペイン王家は名目だけに
その後はたびたび政治改革を試みるものの、失敗して政治不信を招く悪循環。
スペイン政府のお偉いさんが次々に暗殺されるようになってしまいます。
さらには軍人を高職に据えて王権を保とうとして失敗し、共和制政府が興ったため、アルフォンソ13世は1931年にイタリアへ亡命します。
亡命中に、孫であり後のスペイン王となるフアン・カルロス1世が誕生。
亡くなる直前にこの四男のフアン王子に譲位しましたが、そもそもその頃のスペインはフランシスコ・フランコの独裁になっていたため、名目だけに終わりました。
フランコはアルフォンソ13世がスペインにいた頃軍人になっていることからか。
王室に対して嫌悪感などはなかった様子です。
アルフォンソ13世死去に際して「時が来たら必ずスペイン王室に棺をお迎えする」と弔辞を送ったとか。
実現したのはフランコの死去後ですけれども。まあ、建前を表に出すだけでもマシなほうかと。
孫のファン・カルロス1世がスペイン王に
なお、フランコは自らの後継者という名目でアルフォンソ13世の孫であるフアン・カルロス1世(先代のスペイン王)を指名。
暗に王室復活を認めました。
これによって、現在もスペインは王制(立憲君主制)になっているわけですね。
ちなみに、王妃ビクトリアはスペインから亡命した間にアルフォンソ13世と別居するようになり、その死後もスペインに積極的に戻ろうとはしませんでした。
彼女の死後は同じスペイン王家の墓に葬られているのですが、それが幸せだったかどうか……。
いくら厳しい時代だったとはいえ、いや、そういう時代だからこそ。
社会の最小単位のひとつである夫婦仲を重視しても良かったのでは?と思ってしまいます。
長月 七紀・記
【参考】
アルフォンソ13世(スペイン王)/wikipedia
ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ/wikipedia