真珠湾攻撃で攻撃を受けた戦艦カリフォルニア/wikipediaより引用

アメリカ

真珠湾攻撃が起きたときアメリカ本土の米軍人たちは何をしていた?

2024/12/08

1941年12月8日は真珠湾攻撃の日。

ルーズベルト大統領が事前に知っていたかどうか――いわゆる「陰謀論」の研究はワタクシのライフワークでもありますが、ともかく多くのアメリカ人にとって真珠湾攻撃は寝耳に水でした。

確かにキナ臭い動きはあったものの、一応は平和だった日常生活が、この日を境にガラリと大転換してしまったのです。

日本側が決死の思いで敢行した真珠湾攻撃当日も、その時までアメリカ本土は呑気なものでした。

 


そのとき東海岸はお昼時 アメフトで大盛り上がり

真珠湾奇襲はハワイ時間の1941年12月7日午前7時55分に始まりました。

諸説ありますが、現在のアメリカ側では、この時間をもって開始したとなっています。

時差がある分、各地で様々な展開となります。

日本では8日午前3時10分。

では、ルーズベルト大統領など政権の要人がいたであろう東海岸は何時だったのか?

答えは7日の午後12時55分です。

要するにお昼時だったのですね。

もっとも、世間の注目はと言うと、恐らくその直前まで、あるイベントに向いていた。

ちょうどこの日、ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)で3試合が行われていたのです。

70年以上の歳月を経た今、当時の様子をサラリと報じているのはNFL殿堂のHP。

当日の組み合わせは、

◆ニューヨークのポロ・スタジアム

【ブルックリン・ドジャーズvsニューヨーク・ジャイアンツ】

◆ワシントンのグリフィス・スタジアム

【ワシントン・レッドスキンズvsフィラデルフィア・イーグルス】

◆シカゴのコミスキー・パーク

シカゴ・ベアーズvsシカゴ・カーディナルズ

上記の3試合でした。

 


スタジアムに緊急放送「将軍は急いでお帰り下さい」

そのタイミングでハワイへ現れたる南雲機動部隊。

当時、場内ではアナウンサーが実況中継を流すというサービスを行っていたそうですが、中断されたのは言うまでもありません。

「場内でご観戦中の軍人の皆様、お手数ですが直ちに所属部隊へご連絡下さい!」

そんなアナウンスが流れまくり、詰めかけた観客は「えっ、何? 何が起きたんだ?」と騒然となったと言います。

当日の様子を生々しく回想するのは、アメフトファンのヘイゼル・ヘイトさん。

1991年にアメリカのUSAトゥデー紙(→link)の取材に、こう答えています。

その日も、御本人は何時もの試合でそうするように、お気に入りの席に座って観戦する積もりでした。そこにけたたましく、かつ不吉なアナウンスが。

「A将軍にB将軍、どうか職場まで御連絡を……X提督にY提督、どうか職場まで御連絡を」

ちなみに、試合開始は午後2時からだったそうで、要するに球場を開門して観客を入れていた頃のアナウンスだったのですね。

軍人のファンにしたら、ちょっと寒い中を早めに行って、選手の練習している所に声をかけてコミュニケーションでも図ろう。

それでもって、場内の売り子にホットコーヒーとハンバーガーなんかを頼み、くつろぎながら、さぁ試合観戦……となるところです。

こういう世間の一大事の常に漏れず、まず第一報を知らされるのは将軍とか提督のエライさん。

下っ端の兵隊さんが知らされるのはずっと後というのはお約束です。

ただし、この時ばかりはいささか事情が異なります。

なんせ試合開始の数分前に海軍省が「真珠湾攻撃される!」という知らせを正式に受けたのですから、大騒ぎの始まりとあいなりました。お偉い方も下っ端も四の五言ってる時間はありません。

政治家センセイたちに知らされたのも、試合開始の数分前だった模様。

ちなみに球場内の記者席電光掲示板には【奇襲の第一報】が表示されていたそうです。

落ちこぼれ記者の成れの果てとは言え、こうした展開がどんな感じだったかぐらいは、手に取るように分かります。

けたたましくなる固定電話の向こうから、本社の同僚等が絶叫。

「もうそっちはどうでもエエから、本社に戻って来て号外作り手伝ってくれや! 試合の取材? あぁもう、そんなもん通信社の記事使うがな、通信社の記事を! 分かるやろうが! こんなんなってもたら、載せるスペースがあったかって、せいぜい4〜5行じゃ」

おそらくそんな感じだったでしょう。

一般人だったヘイトさんは、他の善良な2万7000人の観客同様「えっ、一体全体どうしたのよ」と呆然。

「何しろさ、そこら中の席が全て空いてしまったのよ。凄い事が起きたってのだけは分かったけど、中身について知ったのは試合後だったわね」

そう語っております。

なお、試合の方はつつがなく?終わり、レッドスキンズが20対14でイーグルスを下しました。

 

プレーオフを決めた選手たちは翌日の新聞に呆然

可哀想なのが出場選手達です。

以下「スポーツ今昔」(Sports Then and Now)というサイトの話を読むと、気の毒過ぎて泣けてきます。

チームによっては、この日がシーズンの決着を付ける重要な日。つまり、プレーオフがかかった決戦日だった所もあったのです。

本来なら「NFLプレーオフに✕✕(チーム名)進出」てな見出しで、それなりに報じられるはずだった……。

「それなりに」と断ったのには理由があります。

当時のNFLは、現在ほどの人気が無かったのです(有名なスーパーボウルは1967年から)。

テレビは殆ど普及してなかったので、中継と言えばラジオ。それ以外の人は、直に見る以外ありませんでした。

まぁ、だからこそ選手にしたら目立ちたいって思いがあった事でしょう。

さて、当時6チームの順位はどうだったのか。

まず、地区優勝しプレーオフ出場が決まっていたのはニューヨーク・ジャイアンツ。そして、もう1つの枠を賭けて戦っていたのが、シカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズでした。

書くのもアレなんですが、ヘイトさんが応援しようとしていたレッドスキンズ対イーグルス戦だけが「来季こそ!」以外のモチベーションが見当たらない試合。

であるならば、余計に、双方のファンの熱き声援こそが必要なはず。

それが試合会場ガラ〜ンとなってしまったのですから選手の心中いかばかりか。

普通に考えて最も気の毒そうなのがシカゴの試合でしょう。

双方にとって譲れない展開な所なのに、ファンだって「ここで気合い入れて応援せずして、ファンと名乗れるかい!」と必死のパッチ(©矢野燿大)で応援したかった筈。

あぁそれなのに……アナウンス入りまくり。

「軍人の皆様、配属先に御連絡を」との叫びが、シカゴのコミスキー・パークに鳴り響いたのです。

「エエ所やのにのぅ」と、渋々席を立ち、公衆電話で順番待ちする兵隊さん。

列の前の人が「何ですって!? はい、直ちに!」と叫ぶなり、受話器を置いて疾走した事は想像に余りあります。

ちなみに、試合は34対24でベアーズがカーディナルズを破っています。ベアーズファンの軍人さん、ご愁傷様です。

なお、ウィキペディアの英語版(→link)によると、チャンピオンシップ決定戦は12月21日に開催。

真珠湾奇襲の2週間後(現地時間)に行われました。

試合は37対9でベアーズの勝ち。

ファンにとっては快哉を叫ぶべき試合だったのでしょうけど、観客数は1万3341人とふるわず、当時のタイトル戦では最低だったそうです。

まぁ、平時と変わらずイベントを開催している事自体が驚異的かもしれませんが。

 


気の毒な選手筆頭タフィー・レイズ

そうした気の毒な選手の筆頭にいたのが、ニューヨーク・ジャイアンツのフルバックを務めていたタフィー・レイズでしょう。

先の殿堂のページによると、球団側は長年の活躍を称え、この7日を顕彰デーにしていたのです。

本名はアルフォンス・エミール・レーマン。1912年生まれでしたので、選手としては当時円熟期です。

1936年にジョージ・ワシントン大学の選手としてカレッジ・オールスターでMVPに輝いています。

休暇中だったジャイアンツのオーナーの息子さんが、たまたまワシントン大学とアラバマ大学戦の試合を見ていて「凄い選手がいるよ! ジャイアンツで是非とも取って」と懇願したという逸話があります。

アメリカン・ドリームを体現したようなエピソードですね。実際。同年のドラフト2巡目でジャイアンツに入団しています。

そして入団1年目から大活躍でした。

何しろ、この年だけで830ヤードを駆け抜け、ルーキーとして唯一、オール・リーグ・チームに選ばれていたほどです。

ディフェンスに優れていた選手だったそうで、ジャイアンツが毎年のように優勝争いが出来たのもレーマンの存在があればこそ。

実際、1938年には優勝しています(ちなみに、殿堂には彼の活躍ぶりを紹介したページがあるぐらい)。

で、この日は「タフィー・レーマンズ・デー」を設定していたわけです。

銀のトレーと時計と1500ドルの戦時国債を贈呈し、ファンともども盛り上がるはずだったのですが……。

ちなみに、こちらにはウィリアム・ドノバン大佐が観戦していました。

戦後、CIAを創設したアメリカ情報機関の父とも言える存在ですが、勿論、呼び出しを受けています(→link)。

思いっきりケチがついた格好ですね。

それが祟って1941年の優勝をシカゴ・ベアーズにさらわれていったのかもしれませんな。

タフィー自身は1943年に引退しますが、2年前の日をどう思いながらフィールドを後にしたのでしょうか?

 

フィールドから戦場に1000人が出征した

戦争の始まりは、選手達を押し流していきました。

先のスポーツ今昔(→link)によると、第二次世界大戦中に戦地に旅立っていった選手は約1000人いたそうです。サイトの方ではリスト化しています。

その全部を紹介する訳にはいきませんが、12月7日のポスト・シーズン進出を賭けたシカゴ戦の両チームの選手の「その後」を、サイトでは紹介しています。

奇しき縁というか、何人かは太平洋戦線に配属されているのですね。

カーディナルズのマーシャル・ゴールドバーグは翌年もチームで活躍しましたが、43年に1試合だけ出場後に応召。

南太平洋に、海軍軍人として任務に就いています(ウィキペディア英語版によると大尉にまでなったそうです)。

選手生命を絶たれるような大怪我もせず、46年に復帰して優勝に貢献、48年に引退していました。

沖縄戦に参加したのが、ベアーズのヒュー・ガラニューです。

翌年の優勝に貢献後、海兵隊に入隊。少佐にまで昇進し、航空警戒部隊の一員として戦いました。45年にはベアーズに復帰し、優勝に貢献しています。

戦死してしまった人も、当然います。

ベアーズのヤング・ベッシーがその一人ですね。1940年に入団すると、ディフェンシブ・プレイヤーとして活躍し、41年には5回のタッチダウンを決めています。

翌42年に海軍に入隊、大尉に昇進しますが、1945年1月のフィリピンのリンガエン湾での戦いで命を落としました。

なお、戦死したのは両球団の選手だけではありません。

ジャイアンツのジャック・ラマスとグリーンベイ・パッカーズのハワード・スマイリー・ジョンソンは、それぞれ硫黄島での戦いで散華しています。

なお、硫黄島で亡くなったのは選手だけではありません。

カーディナルズでコーチをしていたジャック・チェブゲニーも、その人です。

中には、遂に花開く事無く亡くなっていった人もいます。

こちらはニール・キニックが典型と言えましょう。

1940年のドラフト2巡目でブルックリン・ドジャーズに指名されたものの、これを蹴ってアイオワ大学のロースクールに進み、真珠湾奇襲の3日前に海軍に応召。

戦闘機のパイロットとして訓練中の43年に事故死しています。

こうして命を落とした選手は23人にのぼり、coldhardfootballfacts.com(→link)というサイトで哀悼されています。

当たり前ですが、やはり戦争は絶対に避けなければなりませんね。


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minami

元大手新聞記者の英語使い。近現代戦史の学界に所属。 海外の歴史ニュースを日本でどこよりも早く伝える。 武将ジャパンでは第一次世界大戦を中心に軍事関連の情報を主に取り扱う。

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