昭和20年(1945年)8月6日は広島に原爆が投下された日。
日本はじめ各国メディアでも注目されますが、とりわけ関係が深いのがチェコだったりします。
アメリカじゃなくてチェコとは意外かもしれません。
広島の原爆ドームを設計したのがチェコ人だった事もありますが、実はそれ以外にも原爆とチェコ人は関わりが深かったのです。
で、今のチェコ人はそれをご存知ないようです(地元のプラハ・デイリー・モニター・2014年8月4日付け)。
地元のタイデンという週刊誌が発掘報道し、それを引用する形で報じておりました。
広島に原爆が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分。
7万人が即死し、年末までに同じ数の人が亡くなられました。
チェコ標準時では午前1時15分の投下であり、それをチェコ人たちが知ったのは8月8日でした。
地元のCTK通信社が、ユナイテッド・プレス通信の記事を翻訳する形で紹介したのです。
そして、自分達と原爆が少なからず関わりを持っていると知っていたのは少数でした。
あの原爆ドームの設計を手がけた建築家がチェコ人
その1つが世界遺産に登録された原爆ドームです。
元々はアール・ヌーボー様式の広島県の産業振興館として建設されたのですが、これを手がけたのがチェコ人のヤン・レッツェル(1880-1925年)でした。
ボヘミア東部のナーホトという街で生まれたレッツェルには、もう1つの顔がありました。
20世紀初頭、ラウリン&クレメントという車を日本に輸出していたのです。
そして、この車が当時の日本のエリートの間で人気があり、レッツェルの名前も知られるようになっていました。
どうやら、その縁で招聘されたようですね。
ユダヤ系物理学者は原爆投下に苦しむ
その産業振興館を破壊する事になった原爆リトル・ボーイ。
開発をしたマンハッタン計画に参加していたチェコ人もいました。
ゲオルグ・プラツェク(1905-1955年)という物理学者です。
ブルノという街で生まれ、当時から有名な物理学者であり、上司のロバート・オッペンハイマーとは親友の間柄でした。
2人は7月16日に行われた実験の観測にも立ち会っています。
ユダヤ系として生まれたプラツェクは、近親者をナチスの強制収容所で殺されていました。
その事を知った本人は、ナチスとの原爆開発競争に勝たねばならないと思うようになっていたようです。
それが原爆の早期完成に繋がっていったのですが、本人は1955年に変死。
自殺したと考える人もいるそうです。
ナチスがチェコを占領する前に親族を連れ出せず、広島と長崎の原爆投下で一般市民を殺してしまった事などで自らを責めていたようです。
エノラ・ゲイの搭乗員の中にもいた
そして、最後の一人がジョー・スティボリック(1914-1984年)です。
慎重な選考の末、エノラ・ゲイ12人の搭乗員となった一人。
エノラ・ゲイは長崎の原爆投下の際にも気象観測機として参加していますので、両方に関わったチェコ人になります。
当時の階級は軍曹で、射撃手。
南モラビアのジュダール・ナト・サーザヴォウ出身の両親を持つスティポリックもチェコ生まれでした。
父親はアメリカでチェコ語の新聞の編集長を務めており、そのせいでチェコ語も堪能だったそうです。
副操縦士のロバート・ルイスともども、こう語っていたそうです。
「おぉ神よ、我々は何て事をしでかしたのだ」
(My god, what have we done?")
なお、この記事は複数のチェコのメディアに転載されていました。
南如水・記
【参考】
プラハ・デイリー・モニター