戦国時代に著名な戦は数あれど、時代の移り変わりを決定づけたという意味で、この戦いの右に出るものはないのでは?
長篠の戦いである。
織田信長が3,000丁の鉄砲を用意して、襲い掛かってくる武田の騎馬隊をバッタバッタと撃ち崩す――。
誰もが歴史で習うその話には誇張があり、実際は鉄砲1,000丁しかなく、そもそも3列になって鉄砲を順々に撃っていくなど「ムリ」だと半ば結論付けられているが、それでも、この戦いまでガチで対峙したことのなかった【織田vs武田】が実現したことで、両陣営の舵取りが大きく変わったのは間違いない。
鳥居強右衛門のドラマから始まった、この長篠の戦い。
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設楽ヶ原
◆鉄砲は天気に左右されるため事前に作戦を確定させることはできません。ゆえに天候を見てから決めたのでしょう。
織田信長さんの最も凄いところは、設楽ヶ原を【城砦化】していたところ。
『信長公記』にも記されてますが、窪地に兵を潜ませるようにして、武田軍から見えないように配置しながら、同時に馬防柵と堀でほとんど陣を砦にしていたところですね。
この「土木技術で遠征先を城砦化」という方針、他の家臣たちにも伝播して参りますね。例えば豊臣秀吉の水攻め(備中高松城の戦い)なんかもそうでしょう。
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水杯
◆馬防柵を設け、山に籠もった織田・徳川連合軍。それに対し、馬による突撃攻撃も辞さなかったとされる武田軍。
一節によると、織田徳川連合軍が3万以上の大軍で、武田軍は1万5千ですから、仮に野戦で戦ったとしてもかなりの兵力差があったわけです。
しかも、信長は陣を城砦化している。城を落とすには3~10倍もの兵力が必要だとも言われ、この戦いが如何に無謀だったか、後世の人々は勝頼の判断に頭を抱えてしまいます……。
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伝説の男達
◆死の突撃――長篠の戦いで武田軍が無謀な突入を強行したのは武田の古老重臣たちが信玄の後を追ったから――なんて指摘をする研究者さんもおられます。
個人的には、武田軍を奇襲した別働隊(酒井忠次ら)があれよあれよと長篠城も救ったことが大きかったのでは?と思います。要は、拠点を押さえられ、下手をすれば挟撃される恐れもあった。武田勝頼さんも前に出るしかなくなってしまったんですね。
実際、織田徳川軍が兵力を隠すため、設楽ヶ原の窪地に兵を潜ませるのに成功していたら、敵の数が少なく見えた勝頼もパワフル騎馬軍団で信長&家康をボコボコにしてやりたいと考えてしまったことでしょう。
武田四天王
◆まぁ、この鉄砲によって石山本願寺と雑賀衆の防御は非常に固くなり、信長さん自身も先へと進めなくなってしまうのですよね……。
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