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週刊武春 飛鳥・奈良・平安時代

舒明天皇の死後になにが起きた?大化の改新をプロデュースした黒幕の存在

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舒明天皇なのか、蘇我蝦夷なのか。

明日香村で見つかった一辺50メートルを超える巨大な未知の古墳とその被葬者を巡って、新聞各紙でもみな1面の大扱いでした。

一般の人にとっては「ジョメイ?」という人物にもかかわらず、しかも明確な文献の裏付けのない発見でも、この大騒ぎぶりは、さすが飛鳥だと改めて実感しました。

昨日は、舒明天皇が即位前後、そして死の前後の飛鳥時代について紹介しました。(陵墓発見?女帝と女帝に挟まれたエアな舒明天皇の死後に起きたこと)

舒明の死は、聖徳太子系、蘇我氏、皇族の3つの勢力の微妙なバランスが保たれていた飛鳥の政治を大きく動かします。蘇我氏と皇族が手を結び、聖徳太子系を滅ぼしたところまでお話しました。

 1回目「陵墓発見?女帝と女帝に挟まれたエアな舒明天皇の死後に起きたこと」
 2回目「舒明天皇の死後になにが起きた?大化の改新をプロデュースした黒幕の存在」(この記事)
 3回目「「韓人が蘇我入鹿を殺した!?」捏造された大化の改新の謎と真相」

天皇の死を待つ入鹿

645年、いよいよ大化の改新の年でなりました。国政のトップ大臣(おおおみ)の座を父蘇我蝦夷から受け継いだ蘇我入鹿(いるか)の野望を阻むものは、舒明の皇后で、現天皇の皇極女帝のみとなりました。

彼女を脅してでも譲位させて、古人大兄を即位させればいいと現代人なら考えるが、当時は死後に天皇が交替するのが絶対的なルールで、生前に譲位する前例はありませんでした。つまり入鹿は女帝が死ぬのを待つしかなかったのです。

実際、入鹿は皇極暗殺までは考えていなかったでしょう。この頃の天皇後継のルールは長子相続ではなく、同世代の年長者から順番に即位するというものでした。聖徳太子系の山背大兄王が滅び、もはや蘇我氏がバックアップする(悪く言えば傀儡)の古人大兄より年長の皇位継承者はいないので、時が来るのを待てばいいだけです。一方で、「三国志」状態の朝鮮半島では刻一刻と情勢が悪化しており、いつまでも飛鳥王朝内のゴタゴタにばかりかまっている暇はなかったということもありました。

そこに入鹿の隙があったのです。

「もはや自分に敵はいない」というおごりの影で、反入鹿の勢力が暗躍を始めていました。むろん、中心となるのは蘇我氏系以外の皇族や豪族です。

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鎌足の登場

若い豪族たちのなかでも人脈が広いと評判だった藤原鎌足(当時は中臣)が動き出します。鎌足は神に使える最高の役職「神祇官」の就任を打診されながらそれを拒否。政界から一時的に身をひくと、皇極女帝の弟、軽皇子に接近しました。

軽皇子は天皇の弟ではありますが、実は皇位継承権をもっていません。(大化の改新のクーデター後に姉から譲位されて孝徳天皇になりますが、のちに書くように緊急事態ゆえの特例でした)

この時代の皇位継承者には「大兄(おおえ)」という称号がつけられていました。この頃の大兄は3人。入鹿に滅ぼされた山背大兄王、蘇我系のホープ古人大兄皇子、そして皇極の息子の中大兄皇子でした。

一方、軽皇子は「大兄」ではありません。皇極と軽皇子の姉弟は、曾祖父こそ天皇(敏達天皇)ではありましたが、生まれながらにして「大兄」の条件である「親が天皇」を満たしていなかったのです。

姉のほうが天皇になれたのは、舒明天皇と結婚して皇后となり、天皇に準じる経験を積んだからです。

48歳の軽皇子は年齢的にも円熟で、蘇我氏に対抗する皇族側の事実上のリーダーだったとも考えられます。しかし、「大兄」でない以上、自らが立つ大義名分がありません。

そこで、両親を天皇に持つ血筋のよさから「大兄」を名乗る、まだ19歳のひよっこ、いや甥っ子(中大兄)を旗印として担ぎ上げようと画策したのです。

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鎌足の裏には老獪な実力者軽皇子がいた

軽皇子は鎌足を舞台裏で動く参謀として迎えたようです。わざわざ自邸に鎌足用の連絡事務所を設けるくらいでした。もしかしたら神祇官の任官を拒否させたことすらも、自由に動きやすくするための軽皇子の差し金だったのかもしれません。

この直後、鎌足が中大兄皇子と蹴鞠(けまり)の場で接触する有名な逸話が起きますが、この演出も軽皇子の指示によるものだとも考えられるでしょう。

日本書紀は、これ以降の大化の改新がすべて中大兄と鎌足のコンビによって周到に計画されたかのように記述しています。しかし、10代と20代の若者たちにできたとは到底思えない緻密な策謀です。

計画が極めて緻密で周到であることは、敵方であるはずの蘇我倉山田石川麻呂《そがのくらやまだいしかわまろ》を味方につけたことからもわかります。

蘇我氏の遺産相続争い

石川麻呂は名前の通り蘇我氏の一員です。なぜ彼は同族を裏切ったのでしょうか。

どうやら蘇我氏内部で土地や財産の相続でもめていたようです。

本家の蝦夷と入鹿が父子の間で直系相続し、蘇我氏の財力を独り占めし、傍系である石川麻呂らはないがしろにされていたのです。もっとも、石川麻呂が滅ぼしたかったのは蝦夷・入鹿親子だけであり、蘇我氏全体ではなかったことを頭に置いといてください。

劣等感を入鹿に抱いていた石川麻呂を陥落するのはたやすかったでしょう。クーデタ参加の報酬は、中大兄と石川麻呂の娘を結婚させる約束でした。

蘇我氏と皇族との婚姻では、大物の皇族はすべて本家に握られていたはずだ。そこに飛び込んできた「大兄」との婚約に、分家の石川麻呂が飛びつかないはずはありません。

大兄と豪族の婚姻を、10代の若者(中大兄)や浪人中の鎌足の一存で決められるはずはありません。その背後になんらかの形で皇族の実力者がいたことは間違いない!そう軽皇子です。

恵美嘉樹(古代史作家)・記

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あす次回はいよいよ大化の改新のクーデター(乙巳の変)

 




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