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毛利家を支え勇将として名高い吉川元春さん/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 毛利家

吉川元春こそ漢の中の漢!「俺の嫁がブスだと? だがそれがいい」

更新日:

結婚相手を選ぶとき、一番重要なのは何だと思いますか?
今なら「共働きでもおk」とか逆に「専業主婦でもいいって言ってくれる人」でしょうか。
いろいろ基準はありますが、だいたいの人は「美人・美形とまではいかなくても、そこそこの顔の人」がいいって言いますよね。
ところが、歴史上にはこの真逆の嫁選びをした人が何人かいます。

本日の主役もその一人。天文十二年(1543年)の8月30日、毛利元就の次男が14歳で元服しました。後の吉川元春です。

元服後に吉川家へ養子に行ったので、一般的に彼を呼ぶときに「毛利元春」ということは少なくなっています。

吉川元春館を正面石垣から

 

飛びすぎる2本目の矢 吉川元春

この人は「三本の矢」(この話は創作という説が濃厚ですが)の話で出てくる三兄弟の真ん中の人。現代でこそ「真ん中の子は地味タイプ」なんて言われますが、元春は真逆といってもいいような性格です。

元服前の10歳で「父ちゃんオレ戦に出たい!!」と無理に初陣してしまうような、勇猛な武将でした。
(ちなみに、家康軍の最終人型兵器・本多忠勝の初陣は12歳です。元春さんパネェ)
また、「オレ自分の嫁は自分で決めるから!」と勝手に縁談を進めてしまうほど、とにかく行動の派手な人でした。

時は戦国時代ド真ん中。

大名やその家族の結婚は当人同士だけでなく、家と家とを結びつけてより戦を有利に運ぶための手段でした。
にもかかわらず自分一人で決めてしまったのですから、ヘタな相手だったら元就もキレていたことでしょう。

 

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お顔が残念な嫁さん候補

お相手は家臣の熊谷信直(くまがいのぶなお)の娘で、ここだけなら特に問題はありません。
家臣の娘の中から嫁をもらうことはごく普通のことでしたからね。
だがしかし! この娘さんの口コミが大変よろしくなかったのです。

「あのお嬢さん、顔さえ良ければねえ……」
「あんな顔の人はこの世に二人といないだろうよ」
などなど、今なら人権侵害になりそうなくらい「お顔が残念」という評判だったのです。

これには元就も他の家臣たちも首を傾げざるをえません。
元就「ワシ、育て方間違えたかな」
家臣A「いやいや殿、元春様にもきっと何かお考えがあるんですよ。多分……」
元就「じゃあお前ちょっと聞いてきてくれない?」
家臣「いやいや殿、元春様はやばいので私はお断りします」

なんてやり取りがあったかなかったかはわかりませんが、とにかく元就からの使者が元治のところへ向かいます。

 

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倍返しなんて目じゃない1石3鳥の嫁取り

「かくかくしかじかなんですけど、元春様はどのようにお考えで?」
と使者が尋ねると、元春は意外な答えを返します。

「いや、オレも別にブス専ってわけじゃないんだよ。
でもさ、女は顔だけじゃないじゃん?家の中をまとめてもらうのに顔は関係ないし。
それにさ、美人だったら浮気とか家臣の視線とか気になっちゃうけど、ブs……もとい不美人だったらそんなことないじゃん?
信直だって『ウチの娘はブサイクって言われてるから、嫁の貰い手がないんじゃないか』って心配だろうしさ、そこでオレがもらえば喜ぶだろ?
これなら一石三鳥じゃん!?」(超訳スンマセン)

元春は元春なりに、きちんと「大名の嫁取り」を理解してのことだったのです。
これには元就も
「さすがワシの息子じゃなあ。3本の矢は間違ってなかった!」
とひとり納得し、希望通り元春はこの娘をもらうことができたのでした。

もっとも、この「わざとブサイクな嫁をもらった」という話は諸葛亮や明智光秀・高橋紹運(立花宗茂のお父さん)、近藤勇など様々な人に似たような話があるので、創作の可能性も高いのですが。

この娘さんがブサイクだったかどうかもはっきりしていないそうです。
一説には、疱瘡(天然痘)を患ったことがあったため、その痕が顔に残ってしまい、うわさが広まってブサイクと呼ばれるようになったのでは?ともいわれています。

 

側室なんていらねぇ!うちの嫁最高!

どちらにせよ、新庄局(しんじょうのつぼね)と呼ばれるようになったこの女性が、本当によくできた奥さんだったのは確かなようです。
夫婦仲も円満で、子宝にも恵まれています。
何より、元春が生涯側室を持たなかったのが何よりの証拠でしょう。
いくら正室でも、ふさわしい性格と能力がなければ、側室に取って代わられてしまうことは珍しくありませんからね。
「元春のヨメは男みたいな手紙を書くのう」なんて元就に苦笑されたこともあるそうなので、大人しいタイプではなかったのでしょう。
そのあたりも元春とは気が合ったのかもしれません。

さて、これだけズバズバ決断するタイプだと、元就やお兄さんの隆元に反抗しそうなものですが、元春はそうはしませんでした。
特に元就や1本目の隆元(このお兄ちゃんは元就より先に死亡)が亡くなってからは、3本目の弟の小早川隆景と一緒に甥っ子で毛利家をついだ輝元(隆元の息子)を支えて守り立てます。

この頃には信長配下だった秀吉が中国地方へと侵攻してきており、あちこちで奮戦しました。
信長の死後は毛利家ともども秀吉に臣従することになりますが、元春は「オレはあんなサルに仕えたくない!あとは頼んだぞ息子!」と言って隠居してしまいました。
毛利氏は鎌倉時代の大江氏から枝分かれした由緒ある家でしたので、名家のプライドが許さなかったのでしょう。

そんな元春の最期は、秀吉の九州征伐のとき。
既に隠居していたにも関わらず、秀吉のワガマ……もとい強い要請と、それを受けた隆景や輝元の説得により出陣したのです。
そして出征先の小倉城(現在の北九州市)で息を引き取ります。
このとき既に病気を患っていたそうですが、最期まで戦場に立ちたかったのかもしれません。

強弓・元就から放たれた2本目の矢は最期の最後まで猛きヤジリとして、戦国の世を駆け抜けたのでした。

長月 七紀・記
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参考:今日は何の日?徒然日記 吉川元春/wikipedia

 




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