徳川家康

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

元和2年(1616年)4月17日は徳川家康の命日。

ご存知、2023年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公ですが、この家康さん、誤解を恐れずに言うならば人気がありません。

もちろん完全に嫌われ者というワケではなく、織田信長真田信繁、あるいは伊達政宗あたりと比べたらの話で、例えばゲームや映像作品などで、なんとな~くイケてない家康を見かけたことはありませんか?

しかし、これが海外に出ると俄然評価が変わります。

信長や秀吉より、スポットを当てられるのです。

英国BBCなどでも番組が制作されるほどで、史実に目を向けても【姉川の戦い】や【三方ヶ原の戦い】など、信長や秀吉に負けず劣らずのド派手な合戦歴を重ねています。

そこで本稿では、家康に注目。

彼の生涯75年を、必要な部分は詳細に、しかし同時にスッキリとまとめてみました。

史実の家康はどんな人物だったのか?

本編をご覧ください。

 

徳川家康 岡崎城にて生誕

東は今川、西は織田、北は武田に挟まれて、常に窮地の中にあった三河の徳川(松平)。

そうした状況の最中、竹千代こと後の徳川家康は、天文11年(1542年)、父・松平広忠と母・於大の方(おだいのかた)の嫡男として岡崎城で生まれました。

岡崎城に伝わる家康の産湯井戸

父の松平広忠は17歳。

その妻・於大の方は15歳というまだ若い夫婦です。

※以下は松平広忠と於大の方の関連記事となります

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竹千代の世代には、数多の戦国武将がおり、同じ「三英傑」として数えられる、織田信長(1534年)や豊臣秀吉(1536年or1537年※諸説アリ)と少し下の年代に当たります。

後に直接対決することになる武田信玄(1521年)とは親子ほどの差(武田勝頼の4歳上)でした。

【主な戦国武将の生年】

斎藤道三(1494年)

毛利元就(1497年)

北条氏康(1515年)

今川義元(1519年)

・武田信玄(1521年)

上杉謙信(1530年)

・織田信長(1534年)

島津義弘(1535年)

・豊臣秀吉(1536 or 1537年)

・徳川家康(1542年)←ここ

・武田勝頼(1546年)

最上義光(1546年)

本多忠勝(1548年)

立花宗茂(1567年)

そんな綺羅星のごとき戦国武将の中で、なぜに徳川家康が、最終的な天下人となれたのか?

いかなる生涯を過ごしたか?

まずは家康の生まれた一族・松平家の由来についても触れながら、その一生を追ってみましょう。

 

織田と今川に挟まれていた松平

松平一族の由来は、どうもハッキリしません。

その出自は江戸期以来議論されおり、『どうやら古代豪族・賀茂氏の流れでないか?』とされています。

確かに家紋の「三つ葉葵」は葵祭で有名な賀茂神社との関わりがありますが、これでは武家の棟梁として血統の正統性はちょっと弱い。

そこで家康は、新田義貞の配下・得川義季が松平の始祖であった――という伝説を根拠にして、後に「徳川」と名乗り、新田系の清和源氏血統を自称するようになったのです。

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また徳川家康の系統である安祥松平家は、嫡流ではありません。

嫡流の家勢が衰えたため、それに取って代わった系統です。このあたりの血筋の問題はいろいろとつつかれてきました。

そんな松平党たちはいかにして三河で躍進していったのか?

キッカケとなったのは、松平七代目であり家康にとって祖父にあたる松平清康です。

松平清康/wikipediaより引用

武勇に長けた清康は三河国を切り従えます。

ところが天文4年(1535年)、守山城攻略を目指して織田信秀(信長の父)と対陣中、部下に斬殺されてしまいました。

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この【守山崩れ】と呼ばれる悲劇以来、松平党は勢いを失い、苦難の日々を歩むことになったのです。

清康の嫡子である広忠は、このとき僅か13歳。

岡崎城を追われ、流浪の身となります。

今川義元の取りなしで岡崎城に戻ることができると、以降は今川の意向に逆らえなくなりました。

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後に家康となる竹千代が生まれたのは、こんな苦難の中でのことでした。

さらに幼い竹千代に苦難が襲いかかります。

母・於大の方の兄である水野信元が今川と敵対する織田方についたため、於大が広忠から離縁されてしまったのです。

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こうして竹千代は、実母と生き別れることとなったのでした。

 

三河武士団 すべては竹千代様のために

生母と離別した竹千代に、さらなる困難が待ち受けます。

6歳の折、父・広忠が織田家に対して対抗するため援軍を今川家に申し込んだところ、人質として竹千代を求められたのです。

織田への対抗勢力である松平家から人質を取るのならば、生母実家が織田方についた竹千代がふさわしかったのです。

竹千代は駿府へと送られます。

が、このとき有名な人質の横取り事件があって織田家に送られ、竹千代はそのまま二年間、尾張に滞在することになったのでした。

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そしてこの尾張人質期間中の天文18年(1549年)に、父・広忠が急死してしまうのですから、過酷にも程がある幼少期です。広忠は表向き病死とされていますが、実は家臣による殺害という指摘もあります。

いずれにせよ祖父、父と二代続けて家臣により殺害されてしまった竹千代。

義元は成年の当主が不在となった松平家を支配下に置き、人質交換で竹千代の身柄を駿府に移します。

竹千代は多くの若い家臣たちに囲まれながら、駿府で暮らすことになりました。彼らは青年か主君と同年代にあたり、遊び相手をつとめながら、竹千代を守り続けます。

駿府で竹千代の教育にあたったのは、母方の祖母である源応尼でした。

さらに長じると、名門今川家に仕える名僧たちが薫陶を授けます。その中には今川義元が頼りにした太原雪斎もいました。

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学問に長けているだけではなく、合戦でも活躍した太原雪斎の教えを受けたことは、竹千代にとって大いにプラスとなったことでしょう。

今川家としても、竹千代が成人したのちには今川家配下の武将として力を尽くして欲しいわけで、粗略な扱いはしなかったと推察できます。

竹千代自身の処遇はさておき、その家臣たちの扱いは過酷なものでした。

岡崎城に入った今川家の城代に従わねばならず、合戦では捨て石のような役目を背負わされるのです。幼主である竹千代が駿府にいる以上、逆らうこともできません。

それでも三河武士団は松平家を見限らず、いつか来る独立の日を信じていました。

彼らの希望は、幼主・竹千代に託されていたのです。

天文22年(1555年)、竹千代は14歳で元服。

義元から一字拝領し、次郎三郎元信と名乗ります(ただし、その数年後には元康と改名したようです)。

元信は元服後一時的に岡崎城に戻ります。と、そこには今川家の城代がおり、本丸に入ることはできません。

それでも家臣たちは元服した主君の姿を見て感慨もひとしおであり、元信はこっそりと蔵の中身を見せられます。

大量の兵糧米と軍資金が備蓄されました。

「これは若殿が三河に戻る時のため、その時期に備えて蓄えていたものでございます」

今川家に服従し、決して豊かではない暮らしの中、こつこつと貯められた物資を見て、元信の感動も大きく、そして責任感も全身を駆け巡ったことでしょう。

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永禄元年(1558年)、元康は初陣で戦果をあげますが、それに対して恩賞は松平家のごく一部を与えられただけでした。

家臣たちは不満を訴え、松平家の領地すべてを与えるように訴えますが、退けられます。

関ヶ原まで、あと四十二年。

この二年後、石田三成が生まれるのでした。

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桶狭間の戦い

念願の松平家独立の好機は、思わぬところでやってきます。

永禄3年(1560年)、今川義元は圧倒的な軍事力を背景に、尾張侵攻を開始(上洛目的という説は現在否定されています)。その配下の将として、元康は先鋒を任されました。

これは露骨な捨て石という見方もできますが、彼の領地が地理的に尾張に近いということも関係しているでしょう。元康の任務は孤立した大高城への食料搬入であり、首尾良くこの任務を果たします。

しかし5月19日、予想だにせぬ大番狂わせが発生します。皆さんご存知の通り、今川義元が織田信長率いる軍勢に討たれてしまったのです。

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のちに【桶狭間の戦い】と呼ばれる歴史上の転換点。

元康はこの時、大高城で休息中でした。

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このままでは敵地尾張に入り込んでいる松平勢は孤立し、囲まれてしまいます。

絶体絶命のピンチか――と焦った元康ですが、実のところ織田勢には兵力の余裕がなく、元康に攻撃を仕掛けることは出来ませんでした。

そこで元康は、自領の松平まで無傷で撤退し、いったんは菩提寺の大樹寺に入ります。

このとき、松平家の本拠である岡崎城は、今川の城代が撤退し、空城になっていました。

喉から手が出るほど欲しかった念願の岡崎城が目前にある……されど今川に対する義理のためか、しばらく様子見に徹する元康。

意を決して岡崎城に入り、今か今かと織田勢の襲来を待ちました。

岡崎城

ところが、義元を討ったことで力を使い果たしたのか、結局、織田勢はやって来ません。

かくして思いもよらぬ幸運により、ほぼ無傷で岡崎城を取り戻した――なんて書くと棚ボタラッキーのようではありますが、先に大高城へ危険な食料搬入を果たしているんですよね。

今川は、当主義元を討たれ、家督を継いだ今川氏真体制では、不安定な状況。

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この間隙を縫って永禄5年(1562年)、元康は今川家から独立を果たし、母方の叔父の仲介で織田家と同盟を結びました。

このとき義元からもらった偏諱「元」を返上し、家康と名乗るようになります。

スムーズな独立のようにも思いますが、実際はさにあらず。

永禄6年(1563年)には「神君三大危難」の一つである三河一向一揆に遭っており、家康は一揆を鎮圧しつつ三河を統一。ようやく独立大名となったのでした。

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二代続けて主君が若くして家臣に殺された三河松平一族。

悲運の雲に晴れ間が見え、ようやく明るい兆しが見えてきました。

関ヶ原まで、あと四十年のことです。

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