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その日、歴史が動いた 仙石家

センゴクこと仙石秀久が九州の地に降り立ち、そして逃走す!

更新日:

 

ヤンマガで知られるセンゴクの仙石秀久

誰でも仕事で失敗して「オレはもうダメだ……」と落ち込んだ経験があるでしょう。
小さいミスの一度や二度ならまだしも、会社に損害が出たりしたら考えるのも恐ろしいですよね。
が、戦国時代にミスどころじゃない失敗したにも関わらず、見事に復帰を果たした人がいました。

天正十四年(1586年)の9月18日、豊臣秀吉の家臣・仙石秀久が薩摩の島津討伐の軍監として着陣しました。

昔は大泥棒の石川五右衛門を捕まえた逸話で有名でしたが、いまはヤングマガジンの漫画「センゴク」の主人公として有名ですね。

 

軍監というのは軍の監督で、総大将が来るまでの代理ともいえる役職。(例えば、関ヶ原の戦いで東軍の軍監を務めたのは、本多忠勝と井伊直政でした。)
秀久は秀吉が木下藤吉郎だった頃からの仲で、実際に勲功も上げていたためこの重職を任されます。

しかし、相手は一族の結束と剛勇さで鳴らした島津家。
兵数で勝るとはいえ、まだ統一途中の豊臣軍ではなかなかうまく戦を進められません。
それもそのはず、このとき豊臣軍の中核になっていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか・戦国BASARAのアニキの人)と十河存保(そごうながやす)は、ちょっと前まで四国で覇権を争っていた元敵同士。
感情的にうまく行くはずがありませんでした。
こんな編成にした秀吉にも問題がありますが、これを仲裁できなかった秀久にも責任がないとはいえないでしょう。

 

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秀吉「俺が行くまで待ってろ」センゴク「来る前に倒せってことだよね。突撃~!」

とはいえ秀吉も無策ではなく、「ワシも後から行くから、お前達は持久戦に徹して待っているように」という命令をしています。
しかし秀久は「関白様が来る前に手柄を立てなければ!」と間違った方向に責任感を発揮してしまいます。
なんと、命令とは真逆に「長宗我部さん十河さん、オレたちで島津を倒しましょう!」なんてほざくのです。
戦況を理解していた元親と信親(元親の長男)は「いやいやアンタ何言ってんの、待てって言われてるんでしょ!?」と引き止めますが、存保が賛成したため秀久の意見が通ってしまいます。

仙石秀久/Wikipediaより引用

この後に起きたのが島津討伐最大の激戦・戸次川(へつぎがわ)の戦いです。
真冬の渡河中という最悪の状況で島津軍に奇襲をかけられた上、お得意の「釣り野伏」にかけられた豊臣軍はあれよあれよという間もなく包囲・殲滅されてしまいます。
元親はこの日、後から出陣する予定だったので退却できましたが、先鋒隊に入っていた信親と存保が乱戦の中で討ち死にという最悪の結果に陥りました。

この大敗を受けた長宗我部家と十河家のその後の運命は悲惨の一言。
長宗我部家では有能な嫡男を失った元親が末っ子(後の盛親)に家督を継がせるという奇策を強行し、大坂の陣で滅びてしまいます。
十河家は存保の子供に所領の相続が認められず、大名家としての地位を失いました。
長宗我部家のほうはずっと後の話ではありますが、結果的に味方の大名家を二つ滅ぼすというウルトラCぶりです。
お前はホープダイヤか秀久よ。
※ホープダイヤ=所有者を次々不幸な死に様に追い込んだとされる呪いのダイヤ。マリー・アントワネットも持ち主の一人だったとか……。

 

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大分からうどん県まで逃走 って逃げすぎワロタ

この事態を招いた秀久はというと、なんと一人で逃げに逃げてしまうのです。
それもただ退却というより逃走と言ったほうが相応しいような逃げっぷり。

戸次川は豊後国(大分県)にあるのですが、所領の讃岐国(香川県)まで勝手に退却してしまいました。
よほど恐ろしかったのでしょうが、当然武士としては失格。
軍監のぐの字も覚えていなかったことでしょう。

イラスト/富永商太

もちろん秀吉は大・大・大激怒。
「待ってろって言ったのに、関白の顔に泥を塗りやがったなこのアホが!お前なんざクビだクビ!頭丸めて二人に詫び続けろ!!」
こうして秀久は所領没収・改易の上、高野山へ追放されてしまいます。

が、秀久のすごいところはここから。
一度は頭を丸めて大人しくしていたのですが、天正18年(1590年)の小田原征伐には豊臣軍へ帰参するのです。
地元で兵を集めたり、家康に取り成してもらったりといろいろ根回しも頑張ったようですね。
しかも秀吉好みの派手な服装で、自ら槍を振るって武功を上げるというやる気を見せました。
これを気に入った秀吉は、あっさり秀久を許します。

小田原征伐では、こういう再チャレンジを図った元秀吉の臣下が多数いたのですが、中には秀吉から逆切れされて、処刑されたりしたカワイソスな人もいます。その違いってなんなんでしょうね~。

 

うどん県から小諸そばへ異動

さてさて、新しく信濃国小諸(長野県)に領地をもらい、見事秀久は大名へ復帰したのでした。

ちなみにその後、秀吉が亡くなった後。
秀久は徳川家へすりよります。
徳川秀忠が関が原に遅刻するきっかけとなった、真田氏との上田城の戦いにも参加していますので、ここまでにそうとう接近していたと見ていいでしょう。
攻めあぐねる様子を見て「私を人質にして先へ進んでください!」とまで言っているくらいです。
この案は「譜代の家臣だったらともかく、お前じゃ城側が納得しないだろう」ということで却下されてしまいましたが、秀忠にはいたく気に入られました。
それまでの経緯はアレですが、この「権力者の好みをつかむ」才能は見習いたいですね。

江戸幕府ができてからは、初代小諸藩主として大名の地位を保ちました。
どん底から見事に復活したのはスゴイですが、長宗我部家と十河家のことを考えるとやっぱりアレがアレでごにょごにょ。

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長月 七紀・記

 




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