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ペルシアに痛打を与えるキッカケとなったのは、「テルモピュライの戦い」のスパルタたちだった/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた ギリシャ

マラトンの戦い 勝利して狂喜の兵士が走り続けて絶命→これがマラソンの原型だと!?

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「不利なほうが頑張って大軍を倒す」というのは、古今東西、最も人気のあるテンプレですよね。
人類最古の書物の一つ・聖書でも少年ダビデが大男ゴリアトを倒しているシーンがあるくらいですから、それこそ有史以前からこうした光景は人々の賞賛を集めていたのでしょう。
今回は古代のギリシアにおける、そんな戦争のお話です。

紀元前490年9月12日は、古代ギリシア連合軍vsアケメネス朝ペルシア軍の戦争における「マラトンの戦い」があった日です。

現在では8月にあった説のほうが有力なんですが、こまけえこたあいいんだよ。
そもそも古代ギリシアでは都市国家ごとに違う暦を使っていたとか、グレゴリオ暦(現代の暦。いわゆる新暦)と比べると半年ぐらいずれてる暦があったりするので、深く考えたら負けだと思っている(キリッ)

本題に入る前に、いつも通り地理の確認から行きましょう。

【TOP画像】テルモピュライの戦い/Wikipediaより引用

※映画『300』は紀元前480年に起きた「テルモピュライの戦い」を描いたものです。こちらもギリシャとペルシャ戦争の一つの戦いですね

 

ペルシャ絨毯のペルシャが侵攻していった

えー、まずは地中海付近の地図をご覧ください。

ギリシアは最近財政的な面で話題沸騰中なので、ニュースで地図を見た記憶がある方もいらっしゃると思います。

じゃあペルシアはどこかというと、こちらも近年嫌な件で話題になってしまうことの多い、中東地域にあった国です。じゅうたんでも有名ですね。
ペルシアがあまりにも強く偉大な国だったので、特産物にずっと古い名前をつけて呼んでいるというわけです。中国の文字を「中国文字」ではなく、「漢字」と呼ぶのと似たようなものでしょうか。
アケメネス朝はそのまんま、王朝の名前です。
「アケメネス朝ペルシア」だと長いので、以下「ペルシア」と省略させていただきます。

また、古代の話で地名を事細かに書くとワケワカメになりますので、例によってテキトーに略しながら話を進めていきますね。

 

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攻められたのはギリシャ 当時は豊かだったのね

文明発祥の地の一つ・中東に、ペルシアという強大な国ができたのは、紀元前550年ごろのことです。
代が変わるごとに勢力を拡大していき、建国から50年経った頃には、北は現在のトルコ全域、西はエジプトの少し先、東はインドの国境という広大な領土を得ていました。
そして、より豊かな土地へ進出すべく、ギリシアに目をつけたというわけです。

最初はギリシア南部のイオニアという地域をシマにしましたが、そもそも文化も民族も違うのですから、異国人の干渉をよく思うわけがありません。
当時のギリシアは統一こそしていないものの、文明の先進地域かつ市民=戦士な文武両道の都市国家が多かったところですからね。
イオニアの人々は団結してペルシアに反旗を翻しましたが、あえなく敗れてしまいました。ただしペルシアも相当苦戦したため、内政干渉はやめています。

次に、ペルシアの大軍はギリシア全土を奪おうと兵を進めました。
こうなると、他のギリシア諸都市が「やられてたまるか!」と士気を上げるのも当然のことです。
これ以前には和解策も講じられていたようなのですけれども、目と鼻の先まで来られては、いつどうなるかわかったものではないですしね。

 

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軽装歩兵・重装歩兵・騎兵のペルシャ軍に対し……

ギリシア軍の中心になったのは、ペルシア軍が上陸した地点に近いプラタイアという町でした。
これにギリシア最大の都市国家・アテナイも加わり、戦いの火蓋が切って落とされます。

ペルシア軍はマラトンという土地に上陸し、軽装歩兵・重装歩兵・騎兵という陸戦のセオリー部隊を配置していました。
軽装歩兵は主に投げ槍や弓などの中・遠距離武器の兵で、敵を少しずつ減らす役目を持っています。
重装歩兵は盾や槍で装備を固めた近接線専門の兵士です。主戦力と考えてもいいでしょう。
騎兵はいわずもがな、馬に乗った兵です。直接戦うほかにも、機動力を生かして偵察や伝令の役目も果たしました。

もちろんそれぞれ得意不得意があります。そこで、異なる兵種が互いの不得意な面を補いあうことによって、強い軍になるというわけです。

ペルシア軍の総勢は多くて2万程度だったといわれています。
対するギリシア連合軍は1万弱ほど。単純に戦力は約1/2です。
しかも総指揮官は交代制で、10人の将軍が日替わりで指揮を取ることになっていました。嫌なフラグがビンビンですね。

しかしこの10人の中に、とても優秀かつ勇敢な指揮官がいました。

 

捨て身同然の突撃で終始優勢に進めたのはギリシャだった

指揮官とは、アテナイのミルティアデスという人です。彼は自分の番になると、早速開戦の仕度を始めました。

そして、ギリシア連合軍のほぼ全てを重装歩兵にし、ペルシア軍の陣が薄いところをピンポイントに狙って総攻撃をかけたのです。
このとき「約1.5kmを一気に駆け抜けて、意表をついた」とかいないとか。「途中までゆっくり進んでいきなり走り出し、ペルシア軍の度肝を抜いた」、あるいは「ペルシア軍の行軍中に襲い掛かった」という説もあります。
いかんせん紀元前の話ですから、記録がはっきりしないのも無理はありません。

青がギリシャ軍で赤がペルシャ軍/Wikipediaより引用

 

何はともあれ、捨て身に等しい突撃により優位になったギリシア連合軍は、終始優位に戦闘を進めました。
それは両軍の死者数にも現れています。ギリシア軍の死者が200人ほどだったのに対し、ペルシア軍は6400人もの犠牲が出たそうです。
もはや比べるべくもないというか、現代の基準だと立派に「全滅」です。

ちなみにこの間、これまた有名なギリシア都市国家のひとつ・スパルタの軍が2000人ほど来る予定だったのですが、着いたときには既に戦闘が終わった後だったとか。残念(´・ω・`)

 

重装備のまま46キロを走り続けて死亡って、おい……

まあそれはともかく、倍の人数を見事追い返したわけですから、ギリシア連合軍の士気は有頂天でした。
そしてその中に、エウクレスという兵士がいました。
彼は喜び勇んでという言葉が生ぬるいくらいに狂喜乱舞し、マラトンからアテナイまで重装備のまま駆け抜け、「勝ったどーーーーーー!!!!」(※イメージです)と叫んで絶命したといいます。
ちなみに、マラトン〜アテナイ間は現代の道路でも46kmほどあります。体力ありすぎ恐ろしい。

これが陸上競技の「マラソン」の原型になったといわれている出来事です。
フルマラソンが現在の42.195kmという中途半端な距離になったのは、近代オリンピックが始まってから諸々の大人の事情で調整されたのだとか。

この話が本当なのか、また兵士の名前はエウクレスではなくフィリッピデスだとかいろいろ説はありますけれども、当時のギリシアの人々がどれほど喜んだかがよくわかる逸話ですね。

しかしその喜びはつかの間のことでした。
ペルシアとの戦争はその後40年続き、一時はアテナイもペルシアに占領されたことがあるほど激戦を極めています。
最終的にはペルシアの王様が暗殺されたことにより、和解が成立するのですが……。

その後のことは以前取り上げたことがありますので、よろしければ併せてご覧ください→日本で言えば応仁の乱? ギリシャ凋落のキッカケとなったペロポネソス戦争 【その日、歴史が動いた】

長月 七紀・記

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参考:マラトンの戦い/Wikipedia

 

 




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