シーボルト事件

シーボルトと大日本沿海輿地全図/wikipediaより引用

江戸時代

シーボルト事件に巻き込まれて獄中死した高橋景保が不憫でならない

文政十二年(1829年)9月25日は、シーボルトに国外退去&再入国禁止が申し付けられた日です。

いわゆる【シーボルト事件】のケリがついた日になりますが、シーボルトといえば【出島三博士】とも呼ばれたほどの見識を持つ人。

いったい何がどうなって、こんなにも厳しい処分を受けることになったのか?

早速、見て参りましょう。

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シーボルト
シーボルトは生粋の親日家? あの事件から30年後に再来日していた

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東インド総督にOKを貰い

シーボルトが日本にやってきたのは、彼個人が日本へ強い関心を抱いたことがキッカケ。

オランダの東インド総督にOKを貰い、インドネシア経由で来日しました。

実はこのとき、既にプロイセンのお偉いさんから「日本へスパイしに行ってきて」と言われていたのではないか? という説もあります。

もしこれが事実だったらかなり一大事ですが、今のところ証拠は見つかっていません。

まぁ、スパイ活動の証拠など表にならないのが当然ですわな。

そんなこんなで、純か邪か、あるいはその両方の理由からか、シーボルトは日本のさまざまな風物を調査。

地理・気候・天文・植物など、その対象は実に広範囲に及びました。

 


ヨーロッパの最新地図と交換しないか?

となれば、次はこれらに関する詳細な資料がほしくなります。

そこでシーボルトは、日本国内の学者とも付き合いを始めます。

その中に高橋景保(かげやす)という人がいました。

よしながふみ先生の『大奥』にも出てきましたので、以前と比べるとだいぶ知名度が上がったのではないでしょうか。

景保は、父が高橋至時(よしとき)という江戸幕府の「天文方」。

伊能忠敬の師匠として知られる当時の著名な学者で、景保はその跡継ぎですから、本人も様々な知識や外国の書籍にもよく触れていました。

そこに本物の外国人と接触する機会ができたのですから、さぞテンションが上がったことでしょう。

そして付き合いが続くうちに、シーボルトはこんなやり取りを持ちかけたのです。

「私が持っているヨーロッパの最新地図と、日本の最新地図を交換しないか?」

なんだか嫌な予感がしますよね……。

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