寛永十八年(1641年)4月2日は、江戸幕府がオランダ人に出島へ移ることを命じた日です。
江戸時代のオランダ人といえば「最初からそこに住んでいたんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、紆余曲折を経て出島へ移動したのです。
それは果たしてどんな経緯だったのか?
順を追って見ていきましょう。
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はじめはポルトガル商人のためだった
出島は当初、ポルトガル商人のために作られたものでした。
広さは3,969坪。
ポルトガルから納められる年間使用料は、値下げ交渉をした後ですら約1億円(銀55貫目で概算)……という、かなりの高級物件だったのです。
読み方は、江戸時代には「でしま」と「でじま」の二つあり、オランダ含むヨーロッパでの記録では「デシマ」が基本でした。
しかし【島原の乱】首謀者がカトリックだったことで、風向きが変わります。
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幕府としても「(カトリックの)ポルトガル人と付き合ってるとヤバくね?」(超訳)と考えるようになったのです。
そこに、オランダ商館長が「私たちもポルトガルと同様のものを売れるんで、ポルトガルとは手を切っちゃってくださいよ」と言ってきたため、ポルトガル商人を追い出すことに決まりました。
当然ポルトガルとしては納得いきません。マカオから使者が来たこともありました。
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しかし、幕府は使者を処刑して「二度と付き合わない」ことを示しています。
使者には気の毒な話ですが、これは西洋の介入を防ぐことになって良かったかもしれません。
他国でのヨーロッパ人は、最初に布教や交易を広め、その後、軍事侵略をするのが主な侵略パターンだったからです。
まあ、この時期=江戸時代頃のヨーロッパは、大きな戦争や革命があっちこっちで起きていましたから、はるばる日本まで来て軍事侵略しようなんて思わなかったでしょうし、無理だったでしょうけど。
マカオが日本人奴隷の貿易拠点になっていたこともあり仕方ないですね。
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ポルトガル不在で街が寂れ……
ポルトガル商人たちにお金を落としてもらっていた長崎の町は、当然慌てます。
実際、収入源が減って町は寂れてしまいました。
そこで幕府は長崎の経済のため、オランダ商人を出島に住まわせることに決めます。
平戸にあったオランダ商館の中を見て、
「キリスト教関連のモノがこーんなにいっぱいあるじゃないですか! あー怖い怖い!! 怖いから出島に引っ越してね! そこから出ないでくださいね!!!」(超訳)
と強引に話を進め、オランダ商人を出島に押しこめたのです。
そしてそこから幕末まで、オランダ人との交渉は原則出島で行われます。
歴史の授業で習うのはこの辺の話ですね。
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