延享2年(1745年)1月11日は伊能忠敬の誕生日です。
・初めて正確な日本地図(大日本沿海輿地全図)を作った
・かなりの高齢で始めた
歴史の授業でそんな風に教わると思いますが、いざその足跡を追ってみると、教科書で習う内容とは印象が異なり、あまりの偉業に腰を抜かしてしまいそうになります。
なんせ当時であれば死を迎えてもおかしくない56歳で地図制作をスタート。
それも全て徒歩で距離を測りながら行っているのです。
大金を貰っても気乗りのしなそうな作業は、一体どんな内容だったのか?
伊能忠敬の功績を振り返ってみました。
お好きな項目に飛べる目次
伊能忠敬は上総国で名主の生まれ
測量のためですから、正しく長さを図れないと意味がありません。
伊能忠敬はその基準として自分の歩幅を使いました。
ほぼ一定の幅で歩くように意識し、何歩分にあたるかという計算で距離を割り出していったのです。
同行する人々にもそのための訓練を行い、歩数の平均で可能な限り正しい距離を出すことに注力し続けました。
自宅から駅までの10分さえも、面倒がる現代人。
それを日本全国でやったなんてとても信じられませんね。
あー、言ってみたい! 海岸線を淡々と歩く伊能さんの背中をトントン叩いて、iPhone見せて……。
「グーグルマップ見ます?」
と、冗談はさておき、伊能さんも、もちろんいきなり測量の旅を始めたわけではありません。
伊能忠敬は上総国(今の千葉県北部)の名主の生まれだったのですが、商家の婿養子になっていました。
もともと頭の良い人だったのでしょう。
婿入り後はお金を稼いで家を再興させ、役人まで勤めていたのです。
そして50歳で隠居したのですが、ここで本当に「ご隠居」にはなりませんでした。
年下を先生と呼ぶ謙虚さに平服
何を思ったのか。
伊能忠敬は、長男に家を譲った後、江戸に出て勉強を始めます。
後の地図作りに必要な学問で、測量や天体観測など。
このとき師事した高橋至時(よしとき)が19才も歳下だっていうんだから地味に凄いですよね。
普通、そんなに年下の人に「先生」なんてなかなか言えないものです。
息子のようなお師匠様・高橋至時にしても、伊能忠敬の真剣な姿勢を尊敬していたようで「推歩先生」と呼んでいたそうです。
つまりは、こんな感じで会話していたんだろうなぁ……。
「先生!」
「なんでしょう?先生」
「あのですね、先生」
「そうですか、先生」
ちなみに推歩先生の推歩とは「天文学における計算」という意味だそうで、歩いて地図を作った伊能にとってはピッタリですね。
かくして伊能忠敬は、資金や学問など、測量をするための準備を整えると、実際に測量の旅へと出るのですが……さすがに一度で日本全土を測量するのは無理だと判断したのでしょう。それは計10回にわたるものでした。
しかし、そのスケジュールが、トンデモナイのです。
旅は短くても4か月強。
長いと実に1年半もかけて測量をしているのです。
繰り返しますが、徒歩です。グーグルマップなんかありません。
※続きは【次のページへ】をclick!