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その日、歴史が動いた アフリカ

欧州に一番近いアフリカ・モロッコの歴史 フランス支配からの脱却はいかにして?

更新日:

どんな国にも、今日まで歩んできた歴史があります。
少し考えれば当たり前のことですけれども、普段あまり馴染みのない国だと忘れがちですよね。今回は料理や美容の分野で話題に登ることもある、アフリカのあの国の歴史を見ていきましょう。

1956年(昭和五十六年)3月2日は、モロッコがフランスから独立した日です。

「フランスの移民に黒人系が多い」というのは有名なような、そうでないような話ですが、元を辿ればモロッコを始めとしたアフリカ各地に植民地があったからなんですね。特にモロッコは地中海を挟んでお隣ですから、より関係が深いともいえます。
では、モロッコの歴史を古代から独立までざっくり追ってみましょう。

 

ローマ帝国の勢力下から、7世紀になってイスラム圏へ

モロッコにいくつかある有名な都市の中で、古い歴史を持つのが紀元前814年に建設されたカルタゴ。
中東にルーツを持つフェニキア人が、西方へ勢力を伸ばす過程で作ったといわれています。
共和制ローマとの戦いで一度は滅びましたが、カエサルの時代にはまた戦っているので、途中で盛り返していたようです。まあ、結局カエサルに敗れて属州アフリカの一部になるんですが。

内陸部ではマウレタニア王国という国が栄えており、こちらはローマの属国となった後、クレオパトラ(7世・美女として有名なアノ人)の娘が王家に入ったこともあってか、もう少し後の時代にローマ帝国の属州となっています。

6世紀頃まではローマ帝国・東ローマ帝国の支配下にありましたが、7世紀になってイスラム教国家・ウマイヤ朝が興ると、イスラム圏に組み入れられます。
ここを足がかりに、ウマイヤ朝はイベリア半島(スペインとかポルトガルのある半島)に進出していきました。

ウマイヤ朝の支配圏は、最大で現在のアフガニスタン・パキスタン西部~イベリア半島にまで及びましたので、モロッコはその西の端あたりということになります。
地図で見てみると、領土的にはウマイヤ朝がローマ帝国の後継者といえなくもないですね。もちろん、社会慣習や宗教的には大きく違いますが。

しかし、国がデカくなればなるほど統一を保つのは難しいもの。ウマイヤ朝もその例に漏れず、内乱が起こります。
「ウマイヤ朝のカリフ(王様)は国を私物化している! ムハンマドの親族の子孫によって、正しい国を新しく作るべきだ!」として、革命が起きたのです。
この革命でウマイヤ朝は滅び、アッバース朝という新たなイスラム国家ができました。

 

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国を分割すれば……の巨大フラグを立てて案の定

しばらくは繁栄したアッバース朝も40年ほどで地方に反乱を起こされ、いくつか別の王朝ができます。
モロッコもその一つで、イドリース朝という国になりました。

ついでに言うと、最盛期を築いたはずのアッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシードが、息子たちに「兄弟仲良く、国を分割して治めるように」という巨大なフラグを立ててこの世からおさらばしてしまったせいで、アッバース朝はしばらく大混乱に陥ります。
ローマ帝国を東西に分けたテオドシウス1世もそうですが、親族の争いなんて珍しくもない時代に、なぜ「兄弟仲良く」が実現すると思ったのか、本気で理解に苦しみます。
モロッコはイドリース朝の元で繁栄していった……と言いたいところですが、二人めのカリフ・イドリース2世の死後やっぱり分裂し、200年弱で滅びています。
代わってモロッコを支配したのは、イベリア半島に逃げていたウマイヤ朝の子孫たち=後ウマイヤ朝でした。地理的にも近いですからね。

しかし、後ウマイヤ朝もモロッコを支配し始めて半世紀ほどで滅び、群雄割拠の時代に入ります。
これはおおむね17世紀まで続きました。先日ご紹介したイブン・バットゥータがあんなにフリーダムな行動ができたのも、そうした時代背景だったからかもしれません。

 

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1660年からのアラウィー朝が現在まで続いている

現在まで続くアラウィー朝が始まったのは、1660年のことです。日本でいえば、江戸幕府四代将軍・徳川家綱の頃から同じ王朝が続いていることになります。
アラウィー朝も初めのうちは後継者問題で揺れたことがありましたが、1757年にムハンマド3世によって再統一され、地盤を固めました。
ムハンマド3世はヨーロッパとの友好を選び、一方でアメリカ合衆国を世界で初めて承認するなど、バランス感覚に優れたカリフ(イスラムの指導者)でした。また、彼の時代にモロッコは関税で大きな収入を得ることになりましたので、対外貿易も盛んに行っていたようです。

しかし、ヨーロッパが植民地主義に入ると、近隣のモロッコも無関係ではいられませんでした。
1830年にフランスがモロッコの隣国・アルジェリアの首都アルジェを征服したのを皮切りに、イギリスやスペイン、フランスが不平等条約や戦争を仕掛けてきます。
近代化改革を始めてみたもののうまくいかず、財政難に傾くばかり。それを見た民衆も「王様情けなさすぎ!」と反乱を起こすようになってしまいました。

目と鼻の先で内部分裂を始めたモロッコを、ヨーロッパは見逃しませんでした。
1912年にフランス保護領・スペイン保護領・タンジールの3つに分割されたモロッコは、主権を奪われ、しばし植民地として辛酸を舐めることになります。

スペイン保護領では反乱が起きたものの、フランス軍の介入により失敗。さらに第二次世界大戦でフランスがドイツに負けると、ヴィシー・フランス(ドイツの傀儡政権)vs自由フランス(亡命フランス人によるフランス奪回を目指す組織)の争いに巻き込まれます。1940年のメルセルケビール海戦もアルジェリアのモロッコに近い地域で起きたものですので、当時この地域が連合軍vsドイツで揺れ動いていたことがわかりますね。

その一方でアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとモロッコのスルタンであるムハンマド5世が1943年に会談を行い、独立運動の理解を取り付けています。これにより独立運動が活性化し、戦後にもつながりました。

 

世界的に脱植民地化の動きが広まり

戦後の1947年になると共同主権案も出ましたが、話はスンナリとはまとまらず、しばらくフランス第四共和政vsモロッコ独立運動派の間で血が流れます。

しかし、世界的に脱植民地化の動きが進むと、フランスも次々に植民地を失っていきました。中でも大きかったのは、1954年に仏領インドシナ(現在のベトナム)でベトナム独立同盟会(ベトミン)との戦いに敗れたことです。独立派に負けたのですから、フランスは当然ベトナムを手放すことになりました。
事ここに至ってフランスは「もう植民地持ち続けるの無理じゃね?」と悟り、モロッコも手放すことを決めます。

こうしてモロッコは再びムハンマド5世を戴く王国になり、1956年正式に独立国家として返り咲いたのです。
現在はその孫であるムハンマド6世が国王を務めています。ムハンマド6世は大の日本食好きで、島根県仁多郡の「仁多米(にたまい)」がお気に入りだとか。これはコシヒカリの産地ブランドの一つで、かの魚沼産以上に厳しい条件が設けられているとのことです。さすが王様の舌は違いますね。
2005年に来日されたときには、グルメも楽しまれたのでしょうか。

日本とはその他の面でも独立直後から友好関係を保っている国ですので、今後も長く良いお付き合いを続けていきたいものです。

長月 七紀・記

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参考:モロッコ/Wikipedia モロッコの歴史/Wikipedia モロッコ/外務省

 




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