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筑紫駅列車空襲事件で襲われた西鉄200形(同型車)/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代 WWⅡ

湯の花トンネル列車銃撃事件とは? 終戦直前、無防備な列車を襲った米軍戦闘機の凶行

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歴史を知る上で、当時のことを詳しく調べたり、想像することは非常に重要です。
しかし中には……というか、写真が発明されて以降の近代となると、酸鼻を極める光景が多くなるだけに、なかなか難しい場面もあり……今回は戦時中のそういった事件のお話です。

昭和二十年(1945年)8月5日、湯の花トンネル列車銃撃事件がありました。

字面から何やら嫌な雰囲気が感じられますかね。詳細もまた恐怖と共に吐き気や嫌悪感に襲われる方が多いかと思います。
例によって残虐な表現は控えますけれども、苦手な方は各自退避していただけますよう、よろしくお願いいたします。

まずはこの頃の状況を簡単にお話するところから始めましょう。

 

当初は軍需工場や大都市を対象とした米軍の空襲ですが……

1945年この年の夏、7月26日にポツダム宣言が出されました。

日本政府や新聞各社はこれを無視しておりましたが、戦局に目を向ければ、サイパンや硫黄島などの拠点は既に米軍の手に陥落。そこから日本本土に向けて空襲が度々行われるようになります。
一方、旧日本軍は本土防衛のための飛行機やパイロットは不足しており、本土決戦のために取っておく……という本末転倒な状態でした。

現代目線から考えれば、こうした状況でなお戦争を続けるという判断がどうかしていると思われるでしょう。

日本の本土に空襲が行われた当初、狙われたのは軍需工場が多い町や軍の拠点がある町、あるいは大都市でした。
そして時の経過に従って、ほとんど一般人しか乗っていない電車も襲われ始めます。

むろん、鉄道の線路を破壊するということは、物資輸送の遮断にもなりますので軍事戦略的な意味がないとは言いません。
しかし、後述のように米軍は、明らかに襲撃する戦略的意義もなく人道的にマズイ列車まで襲っているので、そもそもそんな視点があったかどうかは疑わしいところ。

湯の花トンネル列車銃撃事件は、その手の事件の中でも最も被害者が多かったものでした。

湯の花トンネル/Wikipediaより引用(photo by 多摩に暇人

 

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進行方向の左側から突如米軍機が! P-51戦闘機だった

1945年8月5日、午前10時10分。
この日、長野行きの下り列車が新宿駅を出発しました。

列車には、軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されておりました。
が、この日乗っていたのは富士演習場に向かう19名だけで、ほとんどが一般人。

3日前に襲われた八王子空襲で、八王子駅が焼失しており、更には途中の列車交換に時間がかかったことなどもあり、列車は浅川駅(現在は高尾駅)に到着すると、予定より1時間遅れで出発しました。

この時点で既に空襲警報は発令されておりました。
もしも停車中の列車がそのまま駅に留まっていれば、後の悲劇も起きなかったでしょう。しかし歴史にIFはありません。

ただでさえ遅れがちだったところに加えて、乗客の一部が「早く出せ!」と怒鳴り散らしたこともあり、列車は出発します。空襲警報を聞いていた乗員たちにしても「湯の花トンネルや小仏トンネルに入った方が安全である……」と考え合わせていたようです。

しかし……。
列車が、南多摩郡浅川町(現・八王子市裏高尾町)、湯の花トンネルの手前に来ると、目の前、進行方向の左側から突如米軍機は飛んできます。

太平洋側から飛来した、複数のP-51戦闘機でした。

無防備な列車は、無残にも機銃掃射とロケット弾の攻撃対象となったのです。

P-51/Wikipediaより引用

 

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トンネル外に停まったままの車両が執拗に攻撃される

P-51戦闘機による攻撃は、運良くロケット弾の直撃は外れました。

が、機銃掃射による被害は避けられず、機関車と1両目が特に激しく損傷、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止してしまうのです。
このため、トンネルの外で停まった車両が複数回銃撃されることになり、犠牲者が増えてしまいました。
こんな状況では、列車の中にいても、外に出てもどのみち危険ですよね……。

犠牲者の数については、戦時中のため正確な数字がわからないようです。

国鉄の資料では死者49名。
後日、建てられた慰霊碑では52名以上。
慰霊会では65名以上とされています。
※負傷者は130名以上

負傷者のうち後日亡くなった人を死者として数えるか。数えるとしたらどのくらい後まで入れるのか。そこら辺の事情をどう酌むかで多少のズレが生じてくるえしょう。
いずれにせよ武器も積んでいない列車が執拗に攻撃され、薄い装甲の中で多くの市民が犠牲になったワケです。
想像するだけで身震いのする凄惨な場面ですね。

事件の後、被害車両は回送され、中央本線自体は当日夕方までに全面復旧したそうです。
人身事故といえばそうですけれども、そこまでして復旧を求める乗客や応じる駅員もどうなのという気が……。

しかし、何よりも恐ろしいのは、同様の事件が全国でいくつか起きていることです。
「まさに外道」と申しましょうか。
今回は3つの類似事件を見てましょう。

 

大山口列車空襲事件~日本赤十字の看護婦も乗っていた

湯の花トンネル列車銃撃事件の前、7月28日午前8時ごろ、鳥取県西伯郡所子村の山陰本線大山口駅東方で発生した事件です。

山陰地方でも、7月23日から米軍の爆撃にさらされており、このころ海軍の飛行場やいくつかの駅、そして工場が被災しておりました。

この日被害に遭ったのは、鳥取発・出雲今市(現・出雲市)行きの下り列車11両。
前2両は病客車で、赤十字が大きく描かれていたそうです。つまり本来は攻撃対象にしてはならないものでした。

この2両に乗っていたのは、呉海軍病院三朝分院から転退院する軍・工廠関係者と、その付添いの衛生兵、日本赤十字の看護婦です。
赤十字章が上空から見えたかどうかはわかりませんが、傷病兵や衛生兵は1929年のジュネーヴ条約でも基本的に「攻撃してはならない」とされていました。

ですから、もしも赤十字が見えていて攻撃したのなら、確実に戦争犯罪です。

そうでなくても、他の一般客車は動員された国民義勇隊・勤労学徒・軍需工場徴用者と一般乗客でした。
本来、一般人=非戦闘員なので、国際法上で攻撃してはいけないことになっています。
こうした非戦闘員が、11両全体で約1200人乗っていたそうです。
現在の山手線・11両編成が(一応)定員1700人程度らしいので、当時の車両の作りや荷物などを考えれば、車内はすし詰め状態だったでしょうね。

大山口駅に到着した際、駅長がアメリカ軍の戦闘機を発見していたため、列車は駅の東側に待避し、約400人を降車させていました。
その後、再び上空に敵機約40機が現れたため、再度、退避! しようとしたそのとき、機銃掃射とロケット弾で一斉に攻撃されたのです。

攻撃は約30分続き、主に前側の3車両が被害を受けました。
死者44名、負傷者31名以上、そして近隣の民家が三軒被災しています。

不幸中の幸いは、乗務員に被害がなかったため、歩ける乗客を降車誘導できた点、そして被害車両の半分を退避させられた点でしょう。
なぜ半分だけなのかというと、機関車(列車を引くための機関がある車両)も若干損害を受けたため、通常通りの運行ができなかったのです。

亡くなった方、負傷された方については痛ましい限りですが、乗員の判断と行動によって被害が軽減した面もあったハズです。

 

那賀川鉄橋空襲~鉄橋上を逃げる人まで狙われる

同年7月30日、徳島県那賀郡平島村(現・同県阿南市)では、那賀川下流の鉄橋を渡っていた列車が襲われました。

徳島駅を午後2時47分に出発し、途中で警戒警報が発令されたため、列車は一時、阿波中島駅に停車。駅長の判断で運行を再開した直後のことでした。
米軍機2両による爆撃と機銃掃射により、列車は大破・脱線して立ち往生状態となり、格好の的になってしまったといわれています。

目撃者によると、米軍のパイロットは「川に飛び込んだ人や、鉄橋上で逃げる人も狙って撃っていた」とか。
戦場の兵士相手や、政府の要人が乗っていた列車だというならともかく(良くはありませんが)、一般人をそこまでして狙う意味があったんですかね。

また、この列車に乗っていたある若い女性車掌が重傷を負い、意識がもうろうとする中でも「皆さん伏せて!」と叫び続けていたそうです。彼女は病院で適切な処置を受けたものの、3日後に破傷風で亡くなったそうで……。
時代も場所も異なりますが、東日本大震災の際、宮城県南三陸町の女性職員が最後の最後まで避難を呼びかけていたという話を思い起こしますね。

この空襲での死者は32人、負傷者は50人超とされています。

 

筑紫駅列車空襲事件~上りと下りが駅で同時に襲われた

8月8日には九州で事件がありました。同日午前、福岡県筑紫郡筑紫村(現:筑紫野市)の大牟田線筑紫駅付近で発生したものです。
被害車両は西鉄福岡9時40分発の大牟田行き・下り普通列車でした。

途中、空襲警報が発令されために1時間ほど停車&遅延しており、筑紫駅付近に来たのは午前11時頃だったそうです。
そしてほぼ同時に、久留米方面から福岡方面へ向かう上り列車も筑紫駅に入ろうとしていました。

この2つの列車が、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射を受けたのです。

筑紫駅周辺は障害物になるようなものがなく、それだけに被害も死者64名、負傷者100名前後という多さでした。こちらも例によって数字には諸説あるようです。

P-51/Wikipediaより引用

 

もう少し全国的に知られてもいいような気が

これらの件に対しては、日米双方に「なぜそうした」としか言えないところが多々あるのが何とも……。
日本の防空に対する甘さは言うまでもなく、特にアメリカ軍は一般人の虐殺で何がしたかったのか。

補給線としての鉄道を破壊するなら、夜間に線路や駅を爆撃すれば済んだはずです。
別件ですが、小学校や子供への機銃掃射も行われていたようなので、明らかに「戦略や弾薬消費を度外視してでも無力な人間を銃撃する」ことを目的にしていたとしか思えません。

いずれの事件も、地元では慰霊祭が行われていたり、慰霊碑や遺構が保存されているそうです。

ただ、もう少し全国的に知られてもいいような気がしますね。
復讐とかリベンジとかそういう目的のためではなく、事実は事実、犯罪は犯罪として伝えるべきでしょう。
こうした事件が世間一般に知られることによって、戦勝国の戦争犯罪追求に繋がり、ひいては今後の防止につながってもいくでしょう。

亡くなった方やご遺族にとっては「今更」かもしれませんが、それが進んで初めて「戦後」が終わるように思います。

長月 七紀・記

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参考:湯の花トンネル列車銃撃事件/Wikipedia 大山口列車空襲事件/Wikipedia 那賀川鉄橋空襲/Wikipedia 筑紫駅列車空襲事件/Wikipedia

 




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