「悪名高い一族」って、どこの国や地域にもいますよね。
どこからが「悪」なのか、というのは時代やお国柄にもよりますが、それでもやはり実際に悪い家系というのはあるものです。
今回はヨーロッパのそんな一家のお話。
1503年(日本では室町時代・文亀三年)8月18日、第214代ローマ教皇・アレクサンデル6世が亡くなりました。
教皇といえばローマカトリック教会のトップですから、何となくスゴイ人のような気がしますよね。
が、この時代の教皇はそんなキレイなものではありません。
アレクサンデル6世が教皇に就く前から、教会の中は腐敗という言葉が生ぬるいような状況でした。
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教皇に就任したのは71歳 そこからの11年間が凄まじい
アレクサンデル6世は、スペイン・バレンシアの生まれです。
つまりスペイン人なのですが、当時はカトリック教会内で親族のコネによる出世(ネポティズム)が横行しており、彼もボローニャ大学を出た後から、伯父のコネでカトリックのナンバー2である枢機卿までガンガン昇進していきました。
他の聖職者たちと同様、お金と女性絡みでだいぶ遊んでいたようで、教皇直々にお叱りを受けたこともあるほど。
それでもやめなかったあたりがサイテーというか、当時の世相がよくわかるというか……。
1492年8月11日、教皇に就任したアレクサンデル6世は、既に71歳になっていました。
その後、亡くなるのが1503年ですから、ここからの動向がわずか11年の間に行われたというのも信じがたいほどで、それぐらいエゲツないというか、なんというか。
そもそも、コンクラーヴェ(教皇選出選挙)に出たときも、他に2人のライバル候補者がおり、投票権を持つ枢機卿たちを買収して教皇になってるぐらいです。
時代と言えば時代なんですかね。
絵に描いたようなゲスっぷりが、いっそ清々しいです。
身内をバンバン要職につけ好き勝手
教皇になってからは教会の財政難解決のため、自ら質素な生活を送ったりもしました。
が、ネポティズム(縁故主義)は変えませんでした。
愛人との間に生まれた息子・チェーザレがまだピサ大学の学生だったにもかかわらず、バレンシアの大司教にしたり、いとこのジョバンニを枢機卿にしたり……。
相当わかりやすい汚職ぶりです。
元々イタリア出身ではないために国内の味方が少なかったので、これは仕方がない面もありますね。
しかし、さすがにやり過ぎました。
というのも教皇領を好き勝手するならまだしも、ナポリ王国の領地まで息子に割譲しようとしたため、ナポリ王フェルディナンド1世と激しく対立することになるのです。
イタリア国内での味方が少なかったアレクサンデル6世は、ミラノのスフォルツァ家と手を組みました。
一方、フェルディナンド1世はコンクラーヴェでのライバルだったローヴェレ枢機卿を味方に引き入れ、一筋縄ではいきません。
そしてアレクサンデル6世とローヴェレ枢機卿の仲がより一層険悪になると、暗殺などの危険を回避するため、ローヴェレ枢機卿は自分の司教区であるローマ南西の町・オスティアに立てこもりました。
さらに、フェルディナンド1世はローヴェレ枢機卿を支援するため、フィレンツェ共和国・ミラノ公国・ヴェネツィア共和国と手を組みます。
おおざっぱにいうと、当時のイタリアの1/4~1/3がアレクサンデル6世の敵に回った感じでしょうか。
こんな状況を見過ごすことはできませんし、早急に解決しなければなりません。
戦争を始めるため更に身内を要職につけて
アレクサンデル6世はあらゆるルートを使って味方を増やし、戦争をおっぱじめようとします。
娘のルクレツィアを、ミラノの有力者ペーザロ公ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚させたのもその一環です。
他に、まだ18歳だった息子のチェーザレや、愛人の兄アレッサンドロ・ファルネーゼ(後の教皇パウルス3世)などを枢機卿に任命。
当然教会の内外から問題視されましたが、有能な人物も同時に何人か枢機卿になったので、教皇の人事を完全に否定することはできずに終わっています。
これに対し、フェルディナンド1世はナポリ王国の宗主国だったスペインに支援を求めました。
しかし、スペインはポルトガルと世界分割協定を結ぶために教皇の承認がほしかったので、教皇の敵になることを渋ります。
この時代、両国は大航海時代真っ盛りで、東南アジアや南北アメリカ大陸の覇権を競っており、イタリアのことに手を突っ込んでいる余裕はなかったのです。
こうしてお偉いさんたちがアレコレやっている間に、ローマの治安やモラルは著しく悪化します。
フランス王シャルル8世が攻めてきた!
これを見た周辺諸国も「イタリアをぶんどるなら今!」と考え、虎視眈々とその機会をうかがっていました。
中でも積極的だったのがフランスです。
1494年にフェルディナンド1世が亡くなり、息子のアルフォンソ2世がナポリ王を継ぐと、実際に口と手を出そうとしてきました。
ときのフランス王シャルル8世が
「ナポリは元々ウチの親戚の国だったんだから、俺にナポリ王の継承権がある!」
と言い出したのです。
当然アレクサンデル6世は認めません。
交渉が決裂すると、次は手と足が出てくるのがイヤなセオリー。シャルル8世も仏軍を派遣し、イタリア戦争が始まりました。
このときフランスは、イギリスとの百年戦争が終わって40年くらいしか経ってないのに、似たような理由でよそに首と手を突っ込む神経がスゴイですね。
これに対し、イタリアの中で争っている場合ではないと感じたのか、アレクサンデル6世はアルフォンソ2世のナポリ王継承を認めて和解し、共同でフランス軍へ対抗することにします。
……が、陸でも海でも負けてフランス軍がローマにまで侵攻してきました。
アレクサンデル6世は恥も外聞もなくオスマン帝国にまで助けを求めたが、悪あがきにしかならず、退位するかしないかまで追い込まれます。
保身のために条件を呑み、ローヴェレとも和解する
アレクサンデル6世に対し、シャルル8世は退位を求めず、代わりにいくつかの条件を出しました。
・チェーザレを人質に出すこと
・オスマン帝国からバチカンに人質に来ていたジェムをフランス軍へ引き渡すこと
・ローマ北西の軍港「チヴィタヴェッキア」をフランスに割譲すること
アレクサンデル6世は保身を優先し、これらの条件を呑みました。
この間ローヴェレ枢機卿とも和解しています。
もっと早くに和解しておけば、フランス軍にやられることもなかったのですが……国内の敵で頭が一杯になっていると、国外のことまで頭がまわらないもんですよね。
その後、チェーザレはフランス軍から脱走しましたが、フランス軍はナポリ王国まで攻め込み、アルフォンソ2世は亡命。
フランス軍の完勝に見えましたが、いつまでも本国を留守にしているわけにもいきません。
ヘタをすれば神聖ローマ帝国の二の舞いです。
それに、アレクサンデル6世やイタリア諸国もやられっぱなしでいるつもりはありません。
神聖ローマ帝国やスペインがバチカンに味方し、同盟を組んでフランス包囲網を敷くのでした。
他貴族の資産を没収→懐に入れようとして返り討ち
状況を察したシャルル8世はナポリ王として戴冠したものの、すぐに撤収を開始。
途中で同盟軍と戦いながら、最終的にはフランスへの撤退に成功しました。
ナポリ王はアルフォンソ2世の子・フェルディナンド2世らに受け継がれ、フランス系は根付きませんでした。
その後、ちょっとした事件が起きます。
この戦いの中でヴィルジニオ・オルシーニというローマの貴族がスペイン軍に捕らわれ、ナポリで獄死したので、アレクサンデル6世はその資産を没収して懐に入れようとしたのです。相変わらずですね。
しかし、オルシーニ家も誇りと存亡がかかっていますから、そう簡単には渡しません。
業を煮やしたアレクサンデル6世は息子のホアンと軍を差し向けましたが、返り討ちに遭った上にヴェネツィア共和国に仲介してもらって和平を結ぶ、という情けない結果になります。
さらにホアンが行方不明になり、翌日テヴェレ川で死体となって見つかるという悲劇が起こります。
「犯人はチェーザレではないか」という推測もされましたが、断定する前に捜査は打ち切られています。
チェーザレが冷酷なことも確かですが、ホアンも元からトラブルを起こしがちだったため、誰の恨みを買っていてもおかしくなかったから……のようです。
ちなみにチェーザレは、冷酷なのと同じくらい優秀な政治家でもありました。
ついに教皇とボルジア家を批判!する者が現れたが……
アレクサンデル6世はチェーザレの活動資金を調達するために、資産家の罪をでっち上げて財産を没収、さらに処刑、という荒すぎる手段を取るようになっていきます。
聖職者の汚職は珍しいことではなかったのですが、あまりにも頻度が高い上にやり方がアレなので、アレクサンデル6世とチェーザレをはじめとしたボルジア家の評判はガタ落ち。
しかし、ほとんどの人が「明日は我が身」と恐れ、表立って口に出せずにいました。
そんな中で、ドミニコ会士かつフィレンツェの有力者ジロラモ・サヴォナローラが公然と教皇及びボルジア家を批判し、公会議招集を呼びかけます。
公会議とは、カトリックのお偉いさんたちが集まって教義の意味合いや儀式の日付・内容、聖職者の信任・不信任などを話し合う会議のことです。
当然、この場合はアレクサンデル6世の教皇在任の是非を問う内容になったでしょう。
しかもフィレンツェがフランスと同盟を組んでいたため、アレクサンデル6世も強硬策が取れず、口でアレコレ言うしかできません。
すわ失脚か――。
というところで、告発者のジロラモが厳格すぎて人望を失い、さらに教会から破門されて処刑という末路をたどります。
松平定信のイタリア人版みたいな感じでしょうか。定信は処刑されていませんが。
「1500年の聖年にローマへ巡礼すれば……」
また、ローマの有力貴族でライバル同士だったオルシーニ家とコロンナ家が、教皇に対抗するための同盟を結んでいます。共通の敵がいると団結しやすいもんですよね。
こういった近辺での敵に対抗するため、アレクサンデル6世は政略結婚を推し進めました。
前述の娘・ルクレツィアがその最たる例ですが、チェーザレもフランス王ルイ12世と諸々の取引をした上で、スペインとフランスの境目付近にあったナバラ王国の王女と結婚しています。
アレクサンデル6世は、この結果を見てフランスと同盟を組み、さらにヴェネツィアを味方につけました。
フランス軍はさっそく呼応してミラノへ侵攻し、スフォルツァ家を追放してアレクサンデル6世の敵を一つ潰します。この勢いに乗って、イタリア北部の自称領主たちを一掃しようと考え、チェーザレを司令官に任命し実現していきました。
その周辺の騒乱が収まった1500年。
この年はカトリックで決められた”聖年”だったため、多くの巡礼者がローマにやってきました。
聖年とは、「この年にローマへ巡礼すれば、特別な赦しが与えられますよ」という年です。
だいたい25年に一回とされていますが、例外もあります。
こんなに腐敗していた教会が何を赦すというのか疑問で仕方がありませんが、当時の信者たちはこぞってローマを訪れました。
そして、自分では来られない人のために贖宥状(免罪符)を買って帰っていったそうです。
日本でいえば“妊娠した友人知人のために、旅行先で安産のお守りを買って帰る”みたいな感じでしょうか。
ローマの有力貴族はボルシア家一強になるも……
何はともあれ、これによって大儲けできたので、アレクサンデル6世はまた軍を強化し、チェーザレを出陣させました。
チェーザレはミラノを攻め落とし、その直後ルクレツィアの夫が謎の死を遂げています。
トーチャンと兄貴に利用され続ける代わりに、彼女だけが後々天寿を全うしたのですが……本人はどう思っていたのでしょうね。
そしてチェーザレは軍功を挙げるだけでなく、統治にも力を入れて成果をあげました。次に、父子揃ってフランス軍とともに再びナポリ王国に侵攻し、領土分割に成功します。
さらにはローマ貴族の名家・オルシーニ家とコロンナ家を潰し、ローマはボルジア家一強となりました。
と、栄光はそこまで。
1503年、アレクサンデル6世もチェーザレも、突如病床に伏してしまうのです。
ここまでの行いがアレなので、毒殺の噂も立ちましたが、闘病期間が長いことから、現在では「おそらくマラリアにかかったのだろう」と考えられています。
アレクサンデル6世は高齢なこともあって8月に亡くなり、チェーザレはかろうじて生き延びました。
しかし、かつての父のライバル・ローヴェレ枢機卿に政治的に追い詰められ、1507年にスペイン軍との戦いで戦死しています。
こうしてボルジア家はイタリアと教会の中枢からは消えました。
ただし、血筋はスペイン貴族などに残り、イエズス会の総長になった人もいます。
「教皇や君主の座にこだわらずに血筋を残した」とみれば、賢い戦略だったかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
アレクサンデル6世_(ローマ教皇)/Wikipedia