フランツ・ヨーゼフ1世/wikipediaより引用

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フランツ・ヨーゼフ1世~名君になれなかったオーストリア皇帝 悲痛の人生

1830年(日本では江戸時代の文政十三年)の8月18日、後のオーストリア皇帝になるフランツ・ヨーゼフ1世が誕生しました。

両親が不仲だったため、彼は主に母親であるゾフィーから教育を受けて育っています。
この時点でなかなか嫌な予感がしますが、彼のハードモードな人生はこれだけでは終わりません。

当時の皇帝はフランツ1世。
フランツ・ヨーゼフからすれば伯父にあたります。

そしてこの伯父さんに子供がいなかったので、フランツ・ヨーゼフが後を継いで皇帝になりました。
18歳のときですから、平和な時代であれば順調に国を治めていけたことでしょう。

 

第一次世界大戦の原因も?

しかし、当時のオーストリアはその誇らしい歴史の長さとは裏腹に、舵取りが難しい時期になっていました。

支配下に置いていたイタリア北部やハンガリーでは独立運動が起き、ドイツ統一のためオーストリアを叩きのめしたいと画策するプロイセン宰相・ビスマルクの挑発など、よほど有能な人でなければ無事には済まない問題が立て続けに起きていたのです。

ハンガリー相手には内部政権を認めて二重帝国とすることでそこそこ上手く治めながら、イタリア統一戦争と普墺戦争には負けてしまい、領地と影響力を大幅に失いました。

その腹いせというわけでもないでしょうが、ハンガリーの先にあるボスニアとヘルツェゴビナは半ば無理やり支配下に置いて禍根を作ってしまいます。
そんなわけで、後々第一次世界大戦の引き金となったフランツ・フェルディナント暗殺事件の遠因はこの人ともいえるわけです。

 

絶世の美女と結婚したのに仕事に夢中

フランツ・ヨーゼフは決して乱暴とか粗暴な皇帝だったわけではないというのがまた皮肉なところ。

彼は非常に勤勉かつ時間に正確な人で、一分一秒たりとも遅れや予定外のことを許さないような真面目な人でした。
どちらかというと清濁併せ呑むことも必要な皇帝よりは、主君の命令を忠実に守る軍人や官僚のほうが向いていたかもしれません。

現に、対外関係は上記の通りサッパリでしたが、内政面ではオーストリアの文化・経済を発展させています。
ウィーンに環状道路を引いて市街を整えたのもフランツ・ヨーゼフです。

また、家庭生活は両親に似てか、あまり円満ではなかったようです。

彼の皇后は絶世の美女として有名なエリーザベトなのですが、フランツ・ヨーゼフがあまりにも多忙だったため、ろくに言葉を交わすこともできず、お互い寂しく感じていました。

自由が好きなお嫁さんでしたので色々大変(Wikipediaより)

子供も生まれていますし、決して嫌いあっていたわけではないというのがまた何ともいえません。

夫は真面目すぎて仕事に忙殺され、妻は妻で姑との関係が良くなかったので宮殿に寄り付かないという悪循環が固定化してしまい、ますます顔を合わせる機会がなくなってしまったのでした。

エリーザベトはお気に入りの舞台女優のカタリーナ・シュラットを皇帝の話し相手として紹介していますし、皇帝もまた彼女ら二人と上手く付き合っていたといいますから、お互い良い関係でありたいと思っていたことは間違いなさそうなのですが。

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息子が愛人と心中 後継者の甥もサラエボ事件で暗殺

さらに哀れなのは、この奇妙な関係の両親から引き離されて育った皇太子ルドルフ。
彼の教育もやっぱりゾフィーが行っていたのですけれども、これによって家庭というものに対する不信感が生まれてしまったようです。

そのせいか、ルドルフは皇帝よりも皇后よりも先に愛人と心中してしまいます。

これによって後継者不在となったため、甥っ子のフランツ・フェルディナントがその立ち位置につき、その彼もまたサラエボ事件で皇帝より先に斃れてしまいました。

至って真面目にやっているフランツ・ヨーゼフとしては、もはや何をどうすれば上手くいくのか見当もつかなかったことでしょう。

後継者を立て続けに失った彼に良策を献じられる人物もおらず、オーストリアは第一次世界大戦へ突入、さらに帝国の地位も失い、列強の座から転がり落ちていくことになります。
時代の大きな転機には、真面目だというだけでは到底乗り切れない難しさがあるのですね……。

ちなみにハプスブルク家自体はフランツ・フェルディナントの弟の系統が現在も続いているので、完全に滅んだわけではありません。
直系の子孫ではないにしろ、真面目だったのに報われないことが多すぎた彼らの慰めになっていればいいのですが。

長月 七紀・記

【参考】
フランツ・ヨーゼフ1世/wikipedia

 



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