フランツ・フェルディナント/wikipediaより引用

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サラエボ事件~なぜ「皇太子」が殺されると第一次世界大戦が勃発するのか

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1914年(大正三年)6月28日、オーストリア皇位継承者だったフランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが亡くなりました。

サラエボ事件で暗殺された人ですね。

実はこの人、偶然に偶然が重なり続けてこのような悲劇的な最期を迎えるハメになってしまっています。

 

皇帝になるはずのない人物が

フランツ・フェルディナントはそもそも、オーストリア帝国の皇帝になるはずのない人物でした。

が、当時の皇太子が愛人と謎の死を遂げてしまい、急遽代役として皇位継承者に選ばれたのです。
当然、本人も想定外の事態でしたから、あらゆる意味で面食らいました。

なぜかというと、当時彼はとある貴族に仕えていた女官ゾフィー・ホテクと恋仲になっており、彼女と結婚しようとしていたからです。

しかしフランツ・フェルディナントは諦めませんでした。

「彼女と結婚させてもらえないなら、皇位なんていりません(キリッ」(※イメージです)という態度を取り続け、粘り強く他の皇族を説得したのです。

 

公の場で連れ添って歩いてはいけない

彼の他に皇位を継げそうな人物は残っておらず、皇族たちも渋々この結婚を認めました。

が、当然タダでとはいきません。

「お前のこと”皇太子”って呼ばないから^^」

「ゾフィーさんだっけ?そもそも身分が違うんだから、妃扱いなんてしなくてもいいわよね^^」

「子供が生まれるかもしれないけど、母親の身分が低いんだから皇位は継がせないよ^^」

その他諸々の条件がついており、特にゾフィーはほぼイジメに近い扱いを受け続けます。
身分の差ってツライ。

フランツ・フェルディナントとゾフィーの結婚式/wikipediaより引用

中でもゾフィーにとってキツかっただろうと思われるのは、
「公の場でフランツ・フェルディナントと連れ添って歩いてはいけない」
という点です。

別に「人前でイチャイチャできなくてカワイソウ」とかそういう話ではありません。

国家行事だけでなく、パーティーその他正式な場では妻を同伴するのがヨーロッパのマナー。
ですから、「マナーを守るべき人間の筆頭であるはずの皇族として認められていない」ということが広く国内外に知れ渡ってしまうのです。

事情を詳しく知らない人間から見れば、
「身分の卑しい女が愛人気取りになっている」
というようにも思えたかもしれません。

 

なぜ皇太子の暗殺が世界大戦になるのか

さて、いよいよサラエボ事件の話に入ります。
と、その前に当時のオーストリアとその周辺国家の関係をさらっていきましょう。

教科書だと「オーストリアの皇太子が殺されてしまったので第一次大戦が起きました」ということになっています。

が、よく考えたら、コレはっきり言ってワケワカメですよね。

「なぜ、たった一つの国の皇位継承者が殺されたくらいで、世界的な戦争になるの?」
と疑問を抱いた方も多いのではないでしょうか。

ものすごくカンタンに言うと「オーストリアと周りの国のイザコザが他の国にも飛び火した」ということなんですが、もうちょっとだけ詳しく書いていきますね。

1914年時点で2つの陣営に分けられたヨーロッパ。緑は三国協商で茶色は三国同盟/photo by historicair wikipediaより引用

まずはハンガリー。
当時オーストリアとは二重帝国になっており、本来であれば皇位継承者であるフランツ・フェルディナントも友好を考えていかなくてはいけませんでした。

しかし、ここでゾフィーの出自が絡んできます。
彼女は当時オーストリアの支配下にあったチェコの出身だったのですが、当然ながらチェコには支配されていることに不満を抱いている人がたくさんいました。

そこで近所のもう一つの大国・ロシアに近付いていたのです。

もともとロシア・チェコ・バルカン半島あたりは民族的に「スラヴ人」という同じくくりに入りますので、ゲルマン人の国であるオーストリアよりは親近感がありました。
こういう考え方を”汎スラヴ主義”といいます。

となると当然ゾフィーも汎スラヴ主義的な考え方になっているわけで、フランツ・フェルディナントもその影響でそっち寄りになりました。

こうしてロシアとオーストリアはチェコを挟んで潜在的な敵対関係になっていたのですが、やっかいなことにもう一つの火種がくすぶります。

「ヨーロッパの火薬庫」ことバルカン半島です。

いつの時代も大国に挟まれ続けてきた地域で、少し前のクリミア戦争でロシアが負けていたため、バルカン半島諸国は独立するか、オスマン帝国 or オーストリアの支配下に入るかのどちらかになっていました。

そしてオーストリアの支配下に入らされたボスニア・ヘルツェゴビナ等では「同じスラヴ系のロシアのほうがいい!オーストリアくそくらえ!!」という気運が高まっていきます。

オーストリアもオーストリアで無理やり軍隊や議会を取り上げてしまっていたので、反逆したくなるのも無理はない話ではあるのですけれども。
後世からするともっとうまくやれよと言いたくなりますが、帝国主義真っ盛りの時代ですからね……。

 

サラエボの軍事演習視察で夫妻を暗殺

フランツ・フェルディナント個人としては、即位したら
「オーストリア=ハンガリー帝国にボスニアその他も加えて三重帝国にし、融和を図っていこう。チェコはボスニアと同じ汎スラヴ主義だから、そこまでやれば同意してくれるだろう」
という考えがあったようです。

ちょっと小規模なEUみたいなもんですね。

が、これはオーストリア嫌いの人々からすれば大きなお世話・いい迷惑以外の何物でもありません。
そしてついにブチ切れてしまったボスニア側の一団が、サラエボの軍事演習視察のために訪れたフランツ・フェルディナント夫妻を暗殺してしまったのです。

この演習の日にちがまた大変まずい日だったというのも、暗殺にまで至ってしまった理由だといわれています。

バルカン半島には今でも多数の民族が暮らしていますが、その中にセルビア人という人たちがいます。
6月28日は、彼らの信仰するヴィトゥスという聖人の祝日だったのです。

さらに、かつてセルビア人たちがオスマン帝国と戦って敗れた日でもありました。

信仰上も歴史上も大切な日なのに、大嫌いな支配者(予定)が来るというのですから腹立たしくなるのも無理はありません。

 

十四回目の結婚記念日に……

そしてこの日はフランツ・フェルディナント夫妻にとってはまったく別の意味を持つ日でした。
1914年6月28日は、二人の十四回目の結婚記念日だったのです。

凶弾に斃れたそのとき、二人の脳裏に「病めるときも健やかなる時も、死が二人を分かつときまで」という文句が浮かんだかもしれないと思うと、皮肉どころでない運命の残酷さを感じずにはいられません。

しかもこのとき、ゾフィーは第五子を妊娠中でした。
既に二人とも50歳前後になっていましたが、仲の良さがわかるというものです。

いっそのこと、フランツ・フェルディナントが皇位継承者になることを拒否していれば……。
と思うと、後世の一個人が言っても詮無いことではありますが、やはりひいきをしたくなってしまいます。

長月 七紀・記

【参考】
フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ/wikipedia

 



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