何かを成し遂げるためには、ときに大きな代償を払わねばなりません。
端的に言えば、時間やお金――と考えがちですが、ときにはそれ以外のものを払うこともありまして。
今回はそんな感じの、とある国の礎となった人のお話です。
1813年(日本では江戸時代・文化十年)6月28日は、ドイツの軍人ゲルハルト・フォン・シャルンホルストが亡くなった日です。
もしかしたら、別の時代にこの名前を見た方もいらっしゃるかもしれませんね。
その答えは最後にお出しするとして、まずは彼の生涯を追いかけていきましょう。
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23歳でハノーファー軍に入るとイキナリ教官に抜擢
シャルンホルストは1755年にドイツ中北部のハノーファーで生まれました。
父親は富農でしたが、かつては騎兵隊の下士官をやっていたそうです。
シャルンホルストもその縁で軍へ入ることを決意し、18歳で士官学校に進みました。
23歳でハノーファー軍に入ると、イキナリ教官に。
実戦経験を経る前から教官になれたということは、成績優秀だった証でしょうね。
同時期に軍事関係の論文を発表したり、雑誌や書籍も発行しています。
その中には30年ほど出版され続けヨーロッパ中で読まれていた雑誌や、増刷を重ねた書籍もあるとか。マルチ過ぎるやろ。
フランス軍は”国民国家”だから強い!
実戦参加は1793年のことでした。
フランス革命戦争の局地戦です。
ちょっと話がややこしくなるのですが、この頃ハノーファーの王様(のような役職の人)はイギリス王も兼任していました。
イギリス側では「ハノーヴァー朝」と呼んでいます。
そのため、シャルンホルストもイギリス軍の指揮官の元でオランダ方面の作戦に参加。
友軍の撤退を補助したり、包囲された味方の救出作戦を立案したり、とても初陣とは思えないような功績を上げています。
頭デッカチの理論派ではないことを自ら証明したことによりシャルンホルストは少佐に昇進し、ハノーファー軍の参謀本部に仲間入りを果たします。
また、後年この経験も書籍に著しました。
1795年に一度休戦になった後、彼は帰国してフランス軍の強さを分析。
至った結論は……。
「フランス軍は”国民国家”だから強い!」
傭兵と貴族だけじゃ強くなれん!
当時、プロイセンを含めたヨーロッパの軍隊は、
”傭兵が主体”かつ”貴族しか将校になれない”
のがデフォルトでした。
つまり、一般人が軍に入っても少数派、かつ功績を上げても出世できないのが当たり前だったのです。
傭兵は金や状況次第で士気がダダ下がりしたり、指揮官の命令に従わないということもありえます。
これでは、よほどの好条件が揃わないと勝てなさそうですよね。
それに比べ、フランスは革命からの流れで一般人が軍の中心になっていますから、愛国心やら殺る気やらが違うわけです。
その上にナポレオンという軍事の天才がいれば、弱くなるわけがありません。
負け惜しみや敵のディスりに偏らず、長所を認めて取り込もうとしたシャルンホルストの姿勢と実績は、各国の首脳を唸らせました。
そして、
「シャルンホルストがいれば、次こそフランスに勝てる!」
という論調となり、各国はアレヤコレヤの餌をぶら下げて彼を勧誘します。
シャルンホルストが熟慮の末に選んだのは、プロイセン軍に加わる道でした。
たぶん言語の問題もあったでしょう。
地方による差はあるにしても、どうせなら母国語が通じる国に移りたかったでしょうから。
次々に軍改革を推し進めてフランスと戦うも……
プロイセンでの初仕事は、ベルリン士官研修所の教官として後裔を育成することでした。
幸運だったのは、同研修所の所長が別の仕事を兼任していたため忙しく、シャルンホルストに全権を委任したことでしょう。
彼は最初から理想のカリキュラムを作り上げることができ、実際、後のプロイセン軍改革の中核となる人物が育成されます。
1802年、”大王”ことフリードリヒ2世の誕生日に、軍の改革に関する会を作っているのもニクイところです。って、これはただの偶然だったりして。
そこから研修所を再編したり、ベルリン陸軍士官用学校(後のベルリン陸軍大学)を設立したり、10年も経たないうちにかなりの準備を整えたのでした。
しかし、かつて大王の元で成功を収めた古強者たちは、こういった改革を好みませんでした。
どこの国でも時代でも、上の世代は若者による変化を嫌うものですが、シャルンホルストにはなまじ功績があるだけに無下にもできません。
他のお偉いさんが口添えしてくれて何とかなったようで、彼の主張が正しかったということが認められるまでにはまだ数年かかります。
1805年、アウステルリッツの戦いにおいて、ナポレオン率いるフランス軍は第三次対仏大同盟に打ち勝ちました。
プロイセンは第三次対仏大同盟には参加していませんでしたが、ナポレオンがいずれドイツ方面に侵攻することは明白。
そのため1806年に第四次対仏大同盟に参加し、フランスへ宣戦布告します。
しかし……。
結果は惨敗。
プロイセン本土全域がフランスに占領されるという屈辱を味わいました。
国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は側近とともにケーニヒスベルク(現・カリーニングラード)へ逃げ、再起を図ります。
シャルンホルストは一時捕まってしまい、捕虜交換により開放されたため、国王の元へ向かい、プロイセン軍再編に注力しました。
義務兵役制度を導入 事務方も設置する
1807年のアイラウの戦いでは、引き分けではあったものの、シャルンホルストの優れた士気能力が認められました。
プール・ル・メリット勲章(プロイセンや第一次世界大戦までのドイツで最も権威を持つ勲章)を授与されているくらいですから、当時としては最高の栄誉です。
その後、ティルジットの和約によってプロイセンとフランスは一時講和。
シャルンホルストはさらに昇進し、本格的に軍制改革に乗り出していきます。
彼と意見を同じくする将校たちが委員に任命され、改革を進めました。
彼我の軍の質に大きな差があることを改めて感じたシャルンホルストは、こう考えます。
『少なくとも傭兵よりは強く愛国心を持っているであろう一般人を、いかにして軍で有効活用するか……』
そこで導入されたのが1808年8月の「義務兵役制度」です。
実際に徴兵が始まったのは1813年のことでしたが、将校の不足を補うために「平民からも将校を採用する」方針を掲げたこともあり、大成功を収めます。
更にはこの成功に押されて1810年、陸軍士官学校を陸軍大学に再編、さらに軍への間口を広くしていきます。
ばかりか、軍の中に事務や経済をコントロールする部署を作ったり、師団ごとに仕事を割り振ったりと、組織構造にもかなりの改革を加えています。
しかし、この、あからさまな反撃の兆しに対して、ナポレオンが「何をしてるのかな?^^^^^^」(※イメージです)と睨みをきかせるようになり、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は圧力に負け、シャルンホルストに改革の一時中止を命じます。
シャルンホルストとしては当然不本意だったでしょう。
そこで彼は発想を変え、対フランス作戦を進めます。
ロシアにプロイセンとの同盟を持ちかけようと、サンクトペテルブルクに向かったのです。
しかし、残念なことに帰国前になってフリードリヒ・ヴィルヘルム3世がナポレオンに屈し、フランスと同盟を締結。
このためシャルンホルストら改革派将校は亡命し、一部はロシア軍に加わったとか。
「リュッツェンの戦い」で撃たれ、プラハで亡くなる
転機が訪れたのは1813年。
ナポレオンがロシア戦役に大失敗し、フランス軍が粉微塵になったときです。
これ以上の好機はナシ!シャルンホルストらは再びプロイセンに呼び戻され、直ちに軍を整えるよう命じられました。
「のび太がジャイアンにいじめられてドラえもんを呼んだ」みたいな構図に見えるのはワタクシだけですかね?
シャルンホルストは参謀総長に任じられ、いよいよ本格的に反撃する……ハズでした。
しかしそこは、腐っても鯛ならぬ、ボロボロでもナポレオン。
緒戦「リュッツェンの戦い」でプロイセン軍は敗れた上、シャルンホルストも脛を撃たれてしまうのです。
シャルンホルストはオーストリア帝国を味方につけるため、傷の手当てもそこそこにウィーンへ。
その途中で敗血症を発症してしまい、プラハで亡くなってしまいました。第二の母国のために奔走し続けた彼としては、さぞかし無念だったことでしょう。
その無念さは、やがて報われます。
プロイセンはその後、シャルンホルストの教え子や後輩にあたる人々によって、ナポレオンを打ち破るのです。
戦場版プロジェクトXとでも言うべき展開ですね。
「シャルンホルスト」の名は第一次世界大戦以降のドイツ軍艦に度々使われており、近現代でも強く尊敬されていることがうかがえます。
日本以外の国では、人名が軍艦の名前に使われることが多いので、自然と国内でどう思われているかがわかりますね。
第二次世界大戦以降から現在にかけてのドイツ海軍では、船に地名を冠することが多いので、現行の「シャルンホルスト」はおりません。
おそらくや愛国心を表に出し過ぎると各国からアレコレいわれるからかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト/wikipedia