想像するだけでゾッとする話。
歴史の中には、時にそうした出来事が実在するから恐ろしいものです。
岐阜県の総人口とほぼ同じ200万人もの人々が、都市と文明を築き上げ、そして忽然と消えてしまった。
それがマヤ文明です。
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1200年前 マヤ文明に何が起こったのか
いまからおよそ1200年前の西暦909年頃。
日本が平安時代ド真ん中だったその頃に、中南米でマヤ文明が滅亡しました。
同文明は、メキシコ南部からグァテマラ、ベリーズへと拡大。
数世紀にわたって独自の文化・技術を築き上げ、200万人もの人々が暮らしておりました。
そんな大都市が、突如として廃墟となり、人々は原始的な暮らしに戻ったのです。
一体何が起きたのか?
一夜にして人が消えたとか、文明が崩壊したわけではありません。
およそ一世紀という時間をかけて、マヤ文明は衰退、滅亡したものと見られます。
都市単位で衰退し、遺されたパイを奪い合うように争い、滅亡したのだと。
気候や環境の変化に政治闘争など
マヤ文明は、なぜ衰退したのか。
以下に主な説を列挙してみたいと思います。
説 | 概要 |
干ばつ(気候変動) | 雨が降らずに農作物ができずに滅亡ルート。取り出した土からも気候変動のあとがあった。ただし、古代マヤ人の骨を見ると、栄養状態は悪くない |
環境破壊 | 焼き畑農業や農地開発によって植生を変えてしまった。ただしこれにも反論がある |
外敵の侵入 | メキシコ経由で外敵が入り滅ぼされた。ただし遺跡からは他文明の人工物が広範囲に発見されることはない。さらに侵入者がどこへ消えたかも不明 |
火山の噴火や大地震 | ポンペイのように火砕流が発生すれば一晩にして滅亡することもありうる。が、マヤでは一世紀かけて人が離れていて、滅亡までの時間が長すぎる |
交易経路変更による滅亡 | 中南米における交易経路が変更されたため、街が賑わいを失い、徐々に衰退し滅亡に向かったという説。ただしこれは因果関係が逆で衰退したからこそ交易経路が変えられたのではないかという反論も |
疫病大流行 | 西半球はヨーロッパ人の侵入前に大規模な疫病の流行はない |
政治闘争 | 政治闘争によって戦争が発生し、殺しあいへと発展した |
実は、マヤ文明・崩壊に関する説は、全部で88もあり、結局のところ何が本当の原因か、今なお特定できていません。
いつくかの要因が複合しているのではないか、と考えられております。
例えば、干ばつが引き金となって疫病が流行り、その動揺に乗じて政治闘争が起こったとか、そういうわけですね。
いずれにせよ文明跡から発掘されるものを見ますと、マヤ文明の終焉が穏やかなものではなかったことは浮かんで参ります。
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