今日では「天下人」のイメージが強い織田信長。
しかし、その半生は尾張と美濃という二カ国の掌握に費やされています。
後半があまりにもスピーディなので、意外かもしれません。
今回は尾張統一までの戦いのひとつである清洲衆との戦いのお話。
現在では「萱津の戦い(かやづの)」とか「海津の戦い」と呼ばれています。
四人の清洲衆が松葉城と深田城を占領
清州衆は、尾張の半分を預かる守護代の家臣たちです。
それなりにキレる頭と兵力を持っていて、この戦いは
坂井大膳
坂井甚介
河尻与一
織田三位
という四人の清洲衆が起こしたものです。
ときは天文二十一年(1552年)8月15日。
現在の愛知県海部郡大治町にあった信長方の城・松葉城と深田城を占領したことから始まります。
松葉城は現在のあま市七宝町、深田城は海部郡大治町にあったとされます。
ただし、深田城はこの後、比較的早く廃城になってしまったため、少し位置が違うかもしれません。
二つまとめて落とされるくらいですから、近所だったことは間違いないでしょう。
また、清洲衆の家老の中で、河尻与一だけは素性がはっきりしていません。他の三人は清洲の家老として、当時から名を知られていました。
叔父の信次が人質に取られ
もちろん、この二つの城からは人質が取られておりました。
『信長公記』では
「松葉城の城主・織田信氏、深田城の城主・織田達順からそれぞれ人質を取った」
と書かれています。
ただし、別の記録では「松葉城の主は織田伊賀守、深田城の主は織田信次だった」となっています。
伊賀守とは誰なのか。
これまた謎ですが、信次は信秀の一番下の弟で、信長にとっては叔父にあたります。
年齢は不詳でして。
織田家の状況から推測しますと、信秀が永正八年(1511年)前後生まれ、三番目の信光が永正十三年(1516年)生まれ、かつ彼らの父である織田信定が天文七年(1538年)に死去しているので、信次は永正十七年(1520年)前後の生まれでしょうか。
信長は天文三年(1534年)生まれですから、一回りちょい歳上の叔父さんですね。
年齢が割と近いこともあってか、信長は信次を比較的重用していたようで、この後もちょくちょく出てきます。
真偽を確かめるには今後の研究を待つしかありません。
とりあえずは
「信長の主君筋の人物が、信長方の城を二つ分捕り人質を取っていた」
という点を押さえれば問題ありません。
奪還すべく那古屋城から出陣す
信長は松葉・深田両城のことを知り、これらを奪還すべく、翌16日に那古屋城を出陣。
この時点では身内の数少ない味方である、叔父の信光と合流し、海津口から攻め始めます。
他に松葉口・清洲口・三本木口(いずれも海部郡大治町)に兵を分けたので、合わせて四方向から攻めたことになります。
こういった場合の「口(くち)」はもちろん体の部位のことではなく、出入り口という意味です。
この節には両軍ともに兵数が書かれていないので、どの程度の軍だったかはわかりません。
しかし、「敵があっちからもこっちからもやってきた」ということだけでも、不意を突くには充分です。
信光の兵もいたわけですし、初期の信長の戦としては割と規模が大きかったでしょうね。
午前8時頃から戦が始まり、清洲衆の多くが討死しました。
もちろん、信長・信光の兵も無傷とは行きません。
「信光の家来で、武功を立てて小姓から出世してきたという赤瀬清六という人物が、清洲州の家老の一人・坂井甚介と戦って討死した」
と信長公記には書かれています。
素性がよくわからない武将も多く記載
そこに、鬼柴田こと柴田勝家が登場。
中条家忠という者と共に甚介の首を取ったようです。
グロい話になるので詳細は省きますが、人間の首はそう簡単には取れないので、協力して取るということも珍しくありませんでした。
大混戦になっている場合、指揮を執る武将が「首は捨て置け」と命じることがあるのも、首を取るのに時間をかけすぎて、逆に自分が討たれる場合があるからです。
敵兵・敵将の首は手柄を証明する最高の手段ですが、欲張りすぎると自分が取られる側になりかねないのですね。怖い。
中条家忠は、素性がよくわからないながら、早くから信長に仕えていた武将の一人でした。
上記の赤瀬清六などもそうですが、信長公記の信憑性の高さは、こうした「現代ではほぼ無名の人物」まで記載されていることからもきています。
執筆時の状況がリアルタイムに近くなければ、大名や主だった武将以外の名前など、記録しようがないですからね。
周辺の田畑などを刈り取って、兵糧攻め
戦いは、正午頃にほぼ決着がつき、流れで松葉城と深田城の奪還に成功。
その後、信長は周辺の田畑などを刈り取って、兵糧攻めも行いました。
こうすることで、清洲衆の生き残りが長期戦をできないようにしたのです。
「俺はお前たちと近いうちにケリをつけるつもりだ」
という意味があったかもしれません。
とはいえ、さすがの信長も、本来の主家にあたるような大きな勢力をすぐに滅ぼすことはできません。
いくつかの段階や協力者を得て、清州城を攻略していくことになります。
次回はその皮切りとなる、とある人物の小さな活躍のお話です。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)