立ちはだかったのは斎藤義龍でした(大河ドラマ『麒麟がくる』では斎藤高政)。
本来、美濃は、織田信長の舅である斎藤道三が治めており、信長には友好的だったのですが、道三の隠居に伴う代替わりで混乱が起き、道三の長男・義龍が、その座を強引に奪い取ったのです。
しかも、その過程で道三を死に追いやる――という、父親追放の武田信玄もビックリな展開。
そのせいで、もしかしたら義龍については悪い印象をお持ちの方も多いかもしれません。
しかし、ことはそう単純でもないでしょう。
いったい斎藤義龍とはどんな人物だったのか?
永禄4年(1561年)5月11日に亡くなったその生涯を、史実に基づき追ってみましょう。
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斎藤義龍の母は頼芸から道三に譲られ
斎藤義龍は大永七年(1527年)、斎藤道三と深芳野(みよしの)の間に生まれました。
※以下は深芳野の関連記事となります
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この深芳野が、なかなか厄介な存在でして、元々は、土岐頼芸(とき よりあき)の側室だった女性であります。
土岐頼芸は、斎藤道三の主君。
つまり彼女は、上司から部下へと譲られたんですね。
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女性をモノ扱いするみたいで眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、当時の価値観ですのでいったん脇へ置いておき、先へと進みましょう。
ともかくここで大事なことは、この斎藤義龍が、他にいた道三の子供たちとは【異母兄弟】だったということです。
【戦国時代+武家+異母兄弟】となると、もうトラブルの予感しかしませんね。
実は弟たちと同母兄弟の可能性もありますが、現時点では不確定ですので、本稿では、異母兄弟と仮定して話を進めましょう。
頼芸・父親説は江戸時代末期のお話
斎藤義龍の幼少期は、例によってナゾです。
天文五年(1536年)に元服を済ませ、「新九郎」と名乗るようになったとされますが、その他はほぼ不明。
元服時の年齢が10才になりますので、一人前の武将として、あるいは道三の後継ぎとして、現場で働くようになるのはもっと後でしょう。
話題になるのは、もっぱら成長後のこと。真っ先に浮かんでくるエピソードがコチラです。
①母・深芳野は、頼芸の子供を身ごもった状態で道三に嫁いだ
↓
②だから義龍は、本当は道三の子でなく、頼芸の子である
↓
③義龍本人がそれを知ったため、父の敵討ちとして道三に背いた
実はこちらのお話、江戸時代末期になって流布されたもので、内容はかなり怪しいです。
当時の義龍は「道三の庶長子(側室の息子で長男)」という立ち位置であり、それ以上でも以下でもなかったでしょう。
天文十七年(1548年)、道三が稲葉山城から鷺山城へ移り、この時点で道三が隠居すると、ここから義龍の動きがはっきりわかるようになってきます。
おそらくや義龍に家督を譲ったからであります。
ただし「道三は隠居していない」とする説もあり、少なくとも実権は手放していないため、二重政権に近い状況ともいえます。
話がキナ臭くなってくるのは、このあたりからのことでした。
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