特に新陰流を起こした上泉信綱は数多の剣術の祖として知られ、特別な存在である「剣聖」と呼ばれるほど。
宮本武蔵のような派手なエピソードがない代わりに、武田信玄の士官を断って剣術修行に出たとか、柳生宗厳や北畠具教に剣術を指南したとか、戦国好きが震えてしまいそうな経歴をお持ちです。
ただ、剣の道に没頭しすぎたせいか。
生年月日だけでなく生没年すら不詳であり、元亀2年(1571年)7月21日『言継卿記(ときつぐきょうき)』の記録を最後に消息を絶っておりまして……。
なぞ多き上泉信綱の生涯を振り返ってみましょう。
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上泉信綱が修めた念流・神道流・陰流
前述の通り上泉信綱は生年が不明。
父は上泉秀継と目されており、この一族は上野国(群馬)に勢力を有していた国衆・大胡(おおご)氏の一族でした。
信綱は次男でしたが、16歳のときに兄が亡くなり、家督を継ぐことに。
剣術については関東武士の間では一般的だった【念流】を学ぶほか、下総国(茨城)の香取でも【神道流】を修めたと伝わります。
念流とは、僧侶であり剣術家でもあった念阿弥慈恩(ねんあみじおん)という人物が南北朝時代に始めた流派です。
剣術家というと上泉信綱が始祖――みたいなイメージもあるかもしれませんが、そもそも信綱が創始した【新陰流】も、彼が享禄2年(1529年)に【陰流】の極意を習得し、それをベースに始めたものになります。
なお、新陰流を始めたのは天文10年(1541年)代と考えられています。
これが信綱と親交を持った柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし)へと引き継がれ、さらに【柳生新陰流】に発展して江戸時代に超ビッグネームとなるため、上泉信綱に剣術家の始祖みたいなイメージがあるのかもしれません。
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信玄の誘いを断ってまで武者修行へ
かように剣術家のイメージが強い上泉信綱は、当初、一武将として関東管領・上杉家に仕えていました。
北条氏ともドタバタがありながら、後に信綱が武名を挙げるのは箕輪城主・長野業政(長野業正)に仕えてから。
戦乱の世では剣一本で生きていくことは不可能ですので、仕方のないことだったのでしょう。
この業正のもとで信綱は活躍をして「上野国一本槍」という感状(主君などから贈られる活躍を称える感謝状)をもらうほどの活躍をしております。
詳細は不明ながら、やはり戦場での武働きはピカイチだったのでしょう。
ふとamazonで検索してみたらTシャツも売られているほどで驚きました。
なお、長野業正は、あの武田信玄の侵攻を6度も食い止めたという伝説もあるほどです。
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おそらく後世の作り話という見方が強いですが、信玄相手に業正が奮闘したのはおそらく間違いなく、上泉信綱がその一翼を担っていたのかと思うと胸アツですね。
実際、業正の死後である永禄9年(1566年)、その息子・長野業盛が武田軍に破れると、宙に浮きかけた信綱を信玄が旗本に抱えようとしたぐらいです。
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しかし、信綱はその誘いを断わります。
武芸者として【新陰流】を広めることにしたのです。
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