石の舟は浮かばない。
稀代の兵法家は、戦国の動乱に翻弄されながら、徳川家康に見出され、ついに兵法(剣術)と一族を天下に浮上させた――。
戦国~江戸期にその名を轟かせた柳生一族。
その始祖となる柳生石舟斎は1527(大永7年)年、大和国の山深い柳生庄に生まれた。
父は柳生美作守家厳で、当時の同家は、大和を支配する三好長慶や筒井順慶らに従う小規模な一族。
幼少期より武芸に優れていた石舟斎は、日夜、研鑽に励みながら世に出る機会を窺っていた。
その機に恵まれたのは1563年(永禄6年)秋のことだ。
後に剣聖として知られる上泉伊勢守秀綱(上泉信綱)に勝負を挑もうとするも、その甥である弟子・疋田豊五郎兼景にすら敵わずじまい。
己の未熟を悟って上泉の新陰流に入門し、二年後には皆伝となった。
石舟斎には『新陰流絵目録』四巻が伝授された。
しかしその後、戦国の梟雄・松永久秀に仕え、待っていたのは長きにわたる挫折の日々であった。
多武峰との戦いでは、拳を弓矢で射られて傷を負う。
1570年(元亀元年)には、長男・巌勝も戦で重傷を負い、さらには1577年(天正5)には、主君の久秀が信貴山城で自刃で果ててしまう。
世の儚さを思ったのか。
兵法(ひょうほう・剣術)に生きることを決意した石舟斎であったが、今度は1585年(天正13年)、太閤検地で隠し田没収の憂き目に遭ってしまう。
豊臣秀次から百石の知行をあてがわれるものの、相変わらずも苦難の日々であった。
もはや浮かび上がることはできまい。
そう自嘲しながら、柳生谷に隠退する石舟斎は、新陰流の鍛錬に精進した。
無刀の工夫――そこに至るまでの心法律「心の道の付事」(心法)の確立を生涯かけて達成せん――。
1594年(文録3年)、そんな柳生に転機が訪れた。
徳川家康の招きに応じ、洛西鷹峯の陣屋において、五男・宗矩と共に柳生新陰流を披露することになったのだ。
日夜鍛えてきた秘剣を披露すると、父子は褒め称えられるばかりではなく、家康直々の誓紙を受け、二百石の知行があてがわれる。
以降、徳川家に仕えることになった。
1600年(慶長5年)、天下分け目の関ヶ原では、石田三成方の動きの探索に全力を尽くし、勝利に貢献。
その甲斐あってか、家康の天下掌握と共に柳生一族は剣術指南役として重きを成すに至る。
宗矩が江戸で家康に仕え、石舟斎は故郷の柳生庄に残り続け、行往座臥と兵法三昧の日々。
新陰流に、自分なりの工夫と、奈良・宝蔵院から受けた影響を加え、さらなる磨きをかけていく。
ひたすら剣に生きた。
全身全霊を捧げた。
そして、慶長11年(1606年)、没。
その後の柳生の栄華は今の世にも知るところである。
文:小檜山青
【参考】
国史大辞典
戦国時代人物事典 歴史群像編集部 (編集)
全国国衆ガイド