昭和十一年(1936年)2月26日、その名の通りの【二・二六事件】が発生しました。
日付がそのまま名称にされる――そんな事件と言えば、もうひとつアタマに浮かんできませんか?
そうです。
【五・一五事件】です。
本日は【二・二六事件と五・一五事件】を比較することによって、両者を効率的に把握してみましょう。
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名前が似ているだけで共通点は少ない
実は二・二六と五・一五という2つの事件は、共通点のほうが少ないです。
「軍人が起こした」ことと「庶民の生活改善が目的に掲げられた」ぐらいのもので、実行犯達が所属していたところから当日の流れ、処罰までが全く違います。
まずはここを最初に頭に入れておくとわかりやすいかもしれません。
◆1932年 五・一五事件
◆1936年 二・二六事件
共通の背景としては、当時の日本がとんでもない不況だったことがあげられます。
どのくらいだったかというと、金融恐慌・関東大震災の上にアメリカ発の世界恐慌まで食らってしまい、にっちもさっちも行かないほどの状態でした。
さらに冷害による凶作と昭和三陸地震(1933年)までくらってしまった東北地方の農村部では、生活のためやむをえず娘を人買いに売り、それでも食料が足りず欠食児童が多発するなど、江戸四大飢饉に匹敵する事態だったといいます。
もちろん政府も黙って見過ごしたわけではありません。
輸出等により一度経済は持ち直したのですが、今度は欧米諸国からやっかみを買って市場から追い出されてしまいます。イチ抜けが気に食わなかったんでしょうね。
そこで仕方なく台湾や満州国など、当時の身内で貿易を始めたのですが、すぐに経済が完全回復するはずもなく、効果はこれから出る……という状況でした。
第一次世界大戦後に五・一五事件
さらに軍にとっては切実なことに、軍事費が削られることになります。
ヨーロッパ諸国が第一次大戦の反省から
「皆で軍隊を減らせば、あんな戦争はもう起こらないよね?」
という情勢になったためでした。
日英同盟により戦勝国側に乗っかっていた日本も応じざるをえず、まず海軍の軍縮について国際会議が開かれます。
そして条約が結ばれることになったところ、この交渉に当たった日本政府の担当者と海軍の間で意思疎通がしっかりできておらず、海軍から反感をくらってしまいました。
その流れで「今の政府はけしからん」と怒りを燃やしていた
【陸軍と海軍の革新派青年将校】
たちが、当時の総理大臣・若槻礼次郎(れいじろう)を襲撃する計画を立てます。
ところが、若槻は条約締結後の選挙で大負けして退陣。
計画は、頓挫になるかと思いきや、若手将校らは部隊を複数に分けて、次のような襲撃を企てました。
第一組 → 首相官邸および日本銀行を襲撃
第二組 → 牧野伸顕内大臣邸を襲撃
第三組 → 立憲政友会本部を襲撃
さらには各所を襲った後に部隊が合流して警視庁、農民決死隊が変電所の機能を奪い、東京を暗黒化させて軍事政権を樹立しようというものです。
物騒ですよね。
結果、犬養毅首相が襲撃され、命を落としました。
これが昭和七年(1932年)に起きた五・一五事件です。
この事件を機に挙国一致内閣へ
この事件、計画自体は物騒ながら、クーデター事件としては手口が稚拙だったと評されております。
というのも、牧野伸顕内大臣邸を襲撃するはずだった第二組は建物内に手榴弾とビラを投げ込むと憲兵へアッサリ自首。
変電所を襲うはずだったグループは、電気知識がなく、何ら効果をあげられませんでした。ど、どうしてそうなった……。
結果的に政権転換を狙うクーデターというより、一時的なテロで終わった感じですね。
実際、事件後は助命嘆願運動が起きたこともあり、実行犯達は数年の禁固刑で済んでいます。そのくらい世間が政府を恨んでいた状態だったんでしょう。
ただし、この事件を機に日本は挙国一致内閣へと傾き、終戦後まで政党内閣の復活はありませんでした。
そして4年の月日が流れ、昭和十一年(1936年)……。
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