聖書に出てくる名前だったり、偉大な王様の名前そのまま使ったり。
同時代に何人も出てきたりして「いいかげんにしてくれぇエエエ!」と叫びたくなる世界史受験の方もいらっしゃったでしょう。
しかも、です。
歴史的に重要な事件ほど、その悪影響を受けたりして……。
1562年(永禄五年)3月1日は、フランスでユグノー戦争が始まった日です。
記事タイトルからして何となく予想のついた方もおられるかもしれませんが、ひたすらややこしいので内容的にはかなり端折らせていただきます。
学生の皆さんはテストのためではなく理解のためと位置づけてください。
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サン・バルテルミの虐殺へと続く内戦勃発
まずユグノー戦争を超絶カンタンに一行で説明します。
「フランスで、カトリックの貴族が、ユグノー(プロテスタントの蔑称)をぶっ殺してしまったため、国内全土に飛び火した内戦であり、そのうち最も激しかったのがサン・バルテルミの虐殺」
となります。
王様が「ユグノーも、まぁ許してあげよう」と妥協した【ナントの勅令】によって、ようやく落ち着いたのが1598年。
実に戦争開始から36年後のことでした。
もっとテキトーにいうと
「一部の貴族がヒャッハーしたせいでプロテスタントが大迷惑、しかし頑張ったのでどうにか全滅を免れたフランスの内戦」
ってところでしょうか。
フランス史の先生方に怒られそうでスミマセン。
最大の特徴としては、似たような名前の王様が大量に出てくるうえ、三つの対立が絡んでいるため、詳しく見れば見るほど泥沼にハマる点です。マジで。
結婚式を機に国中で大虐殺が勃発!サン・バルテルミの虐殺からユグノー戦争へ
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色んな所でケンカしていたもんで
では本題へ入るまえに、当時のフランスの状況を確認しておきましょう。
ここまでややこしく長引いたのは、当時のフランスで、以下の3つの要素が絡み合ってケンカが起きていたからです。
①キリスト教の宗派関係
②フランス国内の権力争い
③フランス以外の国の思惑
もう少し詳しく書きますと、順に
①カトリックvsユグノー
②カトリック派貴族vsユグノー派貴族
③スペイン王フェリペ2世vsイングランド女王エリザベス1世
となります。
「何で外国が絡むの?」
と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、互いに行き来しやすいヨーロッパのお家芸みたいなものです。
あまり深く考えずに、そういうものだと飲み込みましょう。
キッカケはプロテスタントの虐殺
当時のヨーロッパでは、宗教改革でお馴染みのルターやカルヴァンに触発され、
「もうカトリックやめた!俺たちこそが神の教えを正しく理解している!」
ということでプロテスタントに改宗する人が増えていました。
カトリック派の貴族にしてみれば、自分達のことを否定されているようで当然面白くありません。
そしてカトリック派貴族の親玉・ギーズ公が、自分の家の人々までプロテスタントになったことへ我慢ができず
「アイツら全員ピーしちまえ!」
とキレて虐殺を始めてしまったのがユグノー戦争開始のキッカケでした。
「プロテスタントの人々の礼拝中にカトリックの人々がケンカを売り、ギーズ公も顔にケガをしたため周りの人がプッツンした」
という流れだったそうです。
お祈りの最中にディスるとか、どの宗教でもありえないですよね。
そうだエリザベスを頼ろう!見返りは土地で
元々フランスはカトリックが多いお国柄でしたので、ユグノー達は人数的に不利。
そのため「信仰を認めてもらえれば特権がなくてもいいんです」というスタンスだったのですが、さすがに同志がぬっころされてしまうと話は別です。
しかし自分達だけでは抵抗しきれないため、同じプロテスタントの国へ協力を要請しました。
その依頼先は海を隔てたご近所さんのイングランド――つまりエリザベス1世でした。
もっとも英国とてタダでは援助してくれません。
もし事が上手くいったらドーヴァー海峡の沿岸部をイングランドへ割譲する、それが条件。
ジャンヌ・ダルクが火刑に処されたルーアンなども含まれた地域で、百年戦争時にはイングランドの勢力下になっていたところでもあります。
イングランドにしてみれば、100年前に失った土地を取り戻せるかもしれないのですから、悪い話ではないですよね。
かくしてイングランド軍はユグノー側につき、フランスのプロテスタント派貴族と組んでカトリック派と戦うことになります。
いったん火がつくと止まらないお国柄?
それから程なくして、この面倒な事態を引き起こしたギーズ公は襲撃され死亡。
一番の過激派がいなくなったのですからここで落ち着いてもおかしくないのですが、まだまだ内戦は続きます。
特にカトリック派がスペイン王・フェリペ2世と連絡を取った後は、ユグノー達の態度が一気に硬化してしまいました。
フェリペ2世は相当熱心なカトリックであることが知られていたからです。
しかし、カトリック派も全部が全部「ぬっころせ!」スタンスだったわけではありません。
当時の王・シャルル9世が幼少だったため、その母親であるカトリーヌ・ド・メディシスが摂政をやっていたのですが、彼女は「ユグノー?よく知らないけど別にいてもいいんじゃないの」というスタンスだったので、融和を図ったこともあります。
この時代のエライ女性にしては珍しく、サン・バルテルミの虐殺の跡地へ視察に行ったり、戦場へ慰問?に行ったりとなかなか行動的な人でした。
ただし、内戦を即座に収束させることはできません。
もっともカトリーヌがいなければそういう試みもされず、犠牲者が増えていたでしょうから無意味ではなかったと思いますが。
シャルル9世も母親の影響か、あまり過激なほうではなくプロテスタントの人(コリニー公)を重用しています。
が、よりによってそのコリニー公がサン・バルテルミの虐殺で殺されてしまい、元々病弱だったシャルル9世はショックで寿命を縮めてしまいました。
コリニー公もカトリックに対してかなりえげつないことをしていたので、どっちもどっちで、これに影響された市民達が他の場所でもユグノーに対する虐殺を始めてしまい、1ヶ月以上に渡って2万人も殺されるという無法状態になったといいます。
後のフランス革命も含めて、一度火がつくと誰も止められないのはお国柄なんですかね。
フランスというとブルボン家と絶対王政のイメージが強いです。
この頃の王家はまだ違う家で権力も弱く、止めようがなかったのかもしれません。
三人のアンリが王位継承争いまで始めたもんだから
シャルル9世の後は弟のアンリ3世が継承。
ここで困ったことが起きます。
アンリ3世には子供がいませんでした。
他の候補としてフランソワという弟がいましたが、彼がアンリ3世より先に亡くなってしまったのでさぁ大変。
ただでさえややこしいユグノー戦争の真っ最中なのに、王位継承者を巡る争いまで加わり、
・アンリ3世
・カトリック派の貴族アンリ
・ユグノー派の貴族アンリ
が相争うという凄まじくギャグみたいな展開となるのです。
「もうやめて!日本人の理解力はゼロよ!」
思わずそう叫びたくもなりますが……「三アンリの戦い」というまんまな名前で呼ばれているこの戦いは、さらにややこしい結末を迎えます。
アンリ3世がカトリック派のアンリを暗殺し、さらにユグノー派のアンリも殺そうとしたものの逃げられ、反対に自分が暗殺されて、結局、直系の王族が絶えてしまったのです。
ここからブルボン朝始まる
そこで、ユグノー派のアンリが、アンリ4世として即位。
新しく国王となります。
アンリ3世とは、もともと遠い親戚筋だったので、名字=王朝名が変わりました。
彼の名字がフランス王家として有名なブルボンで、ここからブルボン朝が始まるのです。
とはいえ、即座に落ち着いたわけではありません。
アンリ4世は王様になるとカトリックへ改宗したのですが、世間がなかなか認めてくれず苦労することになります。
そこで彼は【ナントの勅令】を発布。
「ウチはカトリックを国教にするけど、条件付ならプロテスタントも認めるよ」
という方針を固め、このワケワカメな内戦がようやく終結します。
36年というとピンとこないかもしれませんが、同時期の日本でいうとだいたい織田信長が桶狭間の戦いに勝利して豊臣秀吉が亡くなるまでですから、かなり長い間国内でお互いコロしあっていたことになりますな。
中世ヨーロッパで現代【EU】のような構想
アンリ4世は長期の内戦でボロボロになったフランスを立て直すべく、さまざまな政策を行いました。
まず「気に入らないヤツはブッコロせ!」という悪習を捨てて、賠償金の支払いなど懐柔策を使って敵対する人々を丸めk……納得させました。
このスタンスを国内だけでなく国外にも貫こうとしていたようで、今で言う国連やEUに近い構想も持っていたようです。
もちろん生前に実現することはありませんでしたが、300年も先取りしてたとかすげえ。
彼は昼も夜も健康で精力的な王様でしたが、狂信的なカトリック信者に襲われ、志半ばで非業の死を遂げます。
それでもフランス最盛期の土台を作った王として、今でも国内の人気は高いのだとか。
「悲惨な内戦があったものの、最後には立派な王様が出てきて国を富ませました。めでたしめでたし……」
と言っていいのかな?
フランスも色々とありますね(´・ω・`)
長月 七紀・記
【参考】
ユグノー戦争/wikipedia