渡辺崋山

渡辺崋山/wikipediaより引用

江戸時代

渡辺崋山と蛮社の獄~下書きだった『慎機論』がお咎め受けて自害へ追い込まれ

天保十二年(1841年)10月11日は、渡辺崋山切腹した日です。

なんとなく「ああ、蛮社の獄で死んだ人だっけ?」という印象の方が多そうですが、実はそれまでかなりイイ仕事もしていました。

何がどうしてそうなったのか?

順を追ってみていきましょう。

渡辺崋山/wikipediaより引用

 


父の定通が100石から12石まで給料を減らされ

崋山の父は田原藩(現・愛知県東部)の藩士・渡辺定通で、江戸藩邸で働いていました。

崋山が生まれたのも田原藩の藩邸です。

渡辺家は本来なら100石を貰える上級藩士でしたが、藩の財政難と「定通が養子である」という理由で12石にまで削られてしまっていました。これはひどい。

しかも、定通が病気がちだったために医療費もかかり、生活費に使えるのはもっと少なかったといわれています。

「武士は食わねど高楊枝」どころではなく、崋山の弟や妹はほとんど他の家に奉公へ。

崋山は幼いなりに、家計の足しになることができないかと考えました。

そこで、得意としていた絵を売って、いくらかの収入を得るようになります。泣ける(´;ω;`)ブワッ

また、小さい頃から藩主の嫡男・亀吉、次いでその弟・元吉の話し相手として仕えていたため、かなり忙しい少年時代を過ごしていたようです。

しかしそのおかげで藩主一家の覚えもめでたく、学問所や絵の勉強をしに行くことができました。

絵については谷文晁という、かなりおおらかな画家に教わっており、それが良い方向に働き、才能を開花させたといわれています。

谷文晁『石山寺縁起絵巻』/wikipediaより引用

少年・崋山は好きなことや目先の生活のことだけでなく、朱子学や農学など、いずれ必要になるであろう知識も積極的に吸収していきました。

こうした息子の姿に励まされたのか。父・定通も出世して80石にまで収入が増えます。よかったよかった。

 


相続問題で発言力を発揮

崋山は30歳で結婚し、二年後に父の死を受けて家督を相続。

しかしここで、田原藩の跡継ぎを巡り、ちょっとした諍いが起きてしまいます。

ときの藩主・三宅康明(かつての元吉)が息子に恵まれないまま28歳で病死してしまい、跡継ぎがいなくなってしまったのです。

江戸時代は、ホントこの手の話が多過ぎですね。

例によって困り果てたお偉いさんたちは、持参金目当てで姫路藩から養子を迎えようと考えました。

あっちもこっちも火の車状態の大名諸藩にあって、姫路藩は木綿の専売などによって比較的裕福になっていたのです。もっとも、そこに至るまでの苦労もスゴイのですが……。

しかし、養子を迎えるにも問題がありました。

病死した元藩主の康明には異母弟の友信がおりまして、本来であれば血筋の続いている順に藩主の座を継ぐのが道理です。

それに加えて藩主一家に近かった崋山は、お偉いさんの決定に納得できず、友信の擁立を呼びかけました。

結局は姫路藩からの養子・康直が次の藩主になりましたが、お偉いさんや姫路藩に「康明の姫と友信の男子を結婚させ、二人の間に生まれた男子を次の藩主にする」ことを承諾させています。

友信も藩主になれないと決まってからは荒れた生活を送っていたものの、「少なくとも自分の孫が将来藩主になれる」と聞いてまともに戻ったそうです。

お偉いさんたちも、崋山たち友信派をなだめる目的で、友信を「ご隠居様」扱いとし、巣鴨に屋敷を用意しました。

ベストでなくても、ベターな結果に落ち着いたというところでしょうか。

崋山はここから友信と親しく付き合うようになり、いろいろと支援してもらうようになります。

 


天保の大飢饉でも餓死者を出さぬ藩政改革

一連の跡継ぎ騒動で気骨があるとみなされたのか。

この後、39歳のとき、崋山は家老の末席に加えられました。

崋山としては奉公はそこそこにして、絵に専念したかったようですが、良い意味で目をつけられたようです。

根が真面目な崋山は、家老の一員になったからには気合を入れて働きます。

倹約に加え、家格ではなく役職を元に禄(給料としての米)をもらう「格高制」を導入し、藩士のやる気を引き出しました。

他に、農業効率アップのため農学者を招き、いろいろな試みをしております。

中でも、鯨油による田んぼの害虫駆除は大当たりしたといわれています。

これにより収穫向上もでき、食料を蓄えておくことに成功。

崋山が家老になって四年目に【天保の大飢饉】が起きたとき、この蓄えと綱紀粛正・倹約と領民優先を徹底し、餓死者を出しませんでした。

自ら「凶荒心得書」というマニュアルも作っています。

「天保の大飢饉」で小屋に収容された被災者を描いた絵/wikipediaより引用

これは幕府の目にも留まり、全国で唯一表彰を受けました。

まぁ、江戸時代になってからこの時点で三回も大飢饉が起きているのに、「食料を蓄える」という手立てが他の藩で脆弱すぎるのがどうかという気もしますが……。

幕府もほとんどの大名も、借金まみれかつ財政難だったので、「いつ来るかわからない(=二度と来ないかもしれない)災害のことなど考えていられない」ということなんでしょうか。

防災で一番やっちゃいけない考え方なんですけどね。

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