こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【渡辺崋山】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
モリソン号事件のときに思わず書こうとした「慎機論」
この頃から崋山は、尚歯会という蘭学者・儒学者の会合に顔を出すようになります。
尚歯会には高野長英や川路聖謨(後々ハリスと交渉した人)などが参加しており、飢饉対策や海防についてなど、幅広い議論がかわされていました。
崋山は表立って口にすることは控えていたものの、内心では開国派だったので、この会の人々と馬が合ったようです。
また、崋山自身には蘭学の心得はなかったものの、蘭学者たちが崋山の考えに深く同意したことで、蘭学者のリーダーとみなされるようになっていきました。
そんな中、崋山45歳のとき、モリソン号事件が起きます。
「日本人の漂流民がたまたまアメリカの商船・モリソン号に救出されたものの、幕府が外国船打払令のために追い返してしまった」という、お役所仕事な事件です。
尚歯会のメンバーはこれに異を唱え、崋山も「慎機論」という本を書こうとしました。
しかし、田原藩の家老という立場上、他の学者たちのように真っ向から幕府へ反論を書くことができず、うやむやな文章になってしまいます。
崋山にも自覚があったようで、公にはせず草稿のままにしておいたのですが……これがよくありませんでした。
陪臣の分際で国政に口を出すとは何事か!
それから約半年後、後に悪名高い【蛮社の獄】が勃発。
崋山が未発表のまま置いておいた「慎機論」が「陪臣の分際で国政に口を出す不届き者の証拠」としてお咎めを受けてしまいます。
命までは取られませんでしたが、田原で謹慎生活を申し付けられました。
当然生活は苦しくなり、画家としての弟子である福田半香の勧めで、絵を売って生活の足しにしています。
図らずも、少年時代と同じような状況になったわけです。
しかし、これが幕府にバレたという噂が立ち、「藩にこれ以上の迷惑はかけられない」と感じた崋山は、「不忠不孝渡辺登」と書き残して切腹してしまいました。
※「登」は崋山の武士としての通称
この噂自体が反崋山派の陰謀という説もありますが、どっちもあり得るのがなんとも……。
崋山は急に昇進して様々な取り組みを実行したために、陰で相当に恨まれていたらしく、死後もかなりの圧力がかけられました。
息子の小崋が許されて家名再興を果たしても、崋山の墓を作ることはずっと許されず、許可が出たのは戊辰戦争が始まった慶応四年=明治元年(1868年)春の話です。
遅すぎる上に、そのタイミングでやることかと。
時代にそぐわない固定観念は国益を損ずる上に、要らぬ死人を出すという例ですかね……。
あわせて読みたい関連記事
最期はピストル自決した川路聖謨~知られざる有能な幕臣が残した『述懐』とは
続きを見る
高野長英が無茶をし過ぎて自害~なぜ指名手配されながら何度も江戸へ行ったのか
続きを見る
妖怪と呼ばれた鳥居耀蔵~裏切った水野忠邦に報復され20年間もの軟禁生活へ
続きを見る
誤解されがちな幕末の海外事情~江戸幕府は無策どころか十分に機能していた
続きを見る
なぜ長州藩の天才・吉田松陰は処刑されたのか~意外な理由で散った30年の生涯
続きを見る
江戸時代にイギリス人となった音吉~帰国叶わず数奇な漂流人生を送る
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
田原市博物館(→link)
渡辺崋山/wikipedia