江戸時代の文化人や学者は、意外とアグレッシブなタイプがたくさんいます。
例えば老齢にして旅に生きた松尾芭蕉や、地図を作った伊能忠敬、外国人へも臆することなく対話した新井白石などがそうでしょう。
今回注目の高野長英は、彼らとはまた違った意味での行動力を持っていたのですが、嘉永3年(1850年)10月30日、自害へ追い込まれます。
いったい何があったのか? その生涯を振り返ってみましょう。
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高野長英 実家は水沢伊達氏の家臣
高野長英は、若い頃から自分の意見をはっきりと示す人だったようです。
元々は、伊達家の一門・水沢伊達氏の家臣。
長英は幼い頃に父と死別したため、母方の伯父であり、医者として主に仕えていた高野玄斎の養子に入っています。
これが医術との出会いでした。
玄斎は杉田玄白の弟子だったため、おそらく長英も、何らかのタイミングで養父から蘭学や西洋医学の話を聞いたと思われます。
まだ見ぬ世界の概念や、東洋医学とは違った知識は、若き長英の探究心や向上心を大いに刺激したのでしょう。
16歳のとき、長英は養父の反対を振り切って地元を離れ、江戸でより多くの医学知識を得ようと試みました。
もちろん、そう簡単には行かなかったようですが、最終的には良い師匠に恵まれました。
杉田玄白の養子・杉田伯元や、日本初の西洋外科医・吉田長淑に教えを受けることができたのです。
シーボルトの鳴滝塾へ
残念ながら長淑とは数年で死別。
それでも高野長英は諦めず、長崎まで行ってシーボルトの鳴滝塾へ入門しました。
翌年には「ドクトル」の称号を授けられ、一人前であると認められたほどですから、その身の入りようがわかるというものです。
しかし、長崎にやってきて三年経った文政11年(1828年)にシーボルト事件が起こり、そのまま九州に留まることは難しくなります。
長英は頭の良さゆえか。
いち早く姿をくらまし、道中で診察や講義をして路銀を稼ぎながら江戸へ。
幕府にしょっぴかれそうなのに、将軍のお膝元に行くあたりがよくわかりませんが、「灯台下暗し」「木を隠すなら森の中」を狙ったのでしょうか。
江戸に戻ったのは、天保元年(1830年)10月ごろだとされています。
それからは一介の町医者として、診察をしながら生理学の研究を続けていたといいます。
幕府を批判
天保三年(1832年)に、日本初の生理学書である『医原枢要』を著しました。
また、ほぼ同時期に渡辺崋山と知り合い、研究の手伝いをするようになります。
それとの関連は不明ですが、このあたりからの高野長英は、少々穏やかならぬ行動もし始めました。
具体的には、天保の大飢饉やモリソン号事件などに対する幕府の失策に対し、著書で大っぴらに批判を繰り返したのです。
確かに、これらの件に対する幕府の対応は、決して上手いものではありませんでしたが、ただ批判しただけでうまくいくわけがないのも道理です。
当然、幕府は長英を要注意人物とみなします。
こうして当局に目をつけられてしまった長英と崋山。
天保十年(1839年)に【蛮社の獄】と呼ばれる言論弾圧事件でしょぴかれてしまい、現代でいうところの終身刑が確定します。
しかし、逮捕したのが鳥居耀蔵で、そのやり口が強引だったせいでしょうか。
高野長英も、真っ向から幕府を批判するほどの度胸があった人ですから、そう簡単には引きません。
獄中でも同志に向けて無実を訴える文書を書き、脱獄の機をうかがっていました。
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