尾崎紅葉

尾崎紅葉/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

『金色夜叉』発表後に亡くなった尾崎紅葉|塩原「清琴楼」で偲んでみよう

2024/10/29

明治36年(1903年)10月30日は、作家の尾崎紅葉(こうよう)が亡くなった日です。

彼が意識したわけではないでしょうが、まさに紅葉の時期に亡くなったことになりますね。

それだけでなんとなく風流なイメージもありましょう。

実はカレ、結構アバンギャルドな生涯を送っていました。

尾崎紅葉/wikipediaより引用

 


父親に反発していた尾崎紅葉

尾崎紅葉は1868年1月10日(慶応3年12月16日)、現在の東京都芝大門に生まれました。

父親は根付(ねつけ・小物を帯から吊るすときに使う留め具)を作る職人と、幇間(ほうかん)という職を兼ねていたそうです。

幇間とはいわゆるお座敷遊びをサポートして、客を楽しませる職業のこと。

芸者さんの女房役みたいな感じですね。

紅葉にとっては好ましいものではなく、父の仕事について語ることを避けていたそうです。

もう少し前の代では米か呉服を扱う商家だったそうなので、もしかしたら「落ちぶれた」と嘆いていたのかもしれません。

母とは早くに死に別れ、母方の祖父母に育てられたことも、父に反発する理由の一つになっていそうです。

父親ならば、紅葉の育成を考えて預けたのでしょうが、子供の頃ってそういうことがわかりませんものね。大人になってわかるようになったとしても、わだかまりになりやすいですし。

学校には真面目に通っており、日比谷高校の前身にあたる東京府中学の一期生になりました。

しかし、ここでの教育は肌になじまなかったようで、府中学を辞めて別の場所で漢学や漢詩・文、英語などを学んでいます。

そして大学予備門(現在の東大)入学を目指します。

幸い、母の実家の知人が学費を援助してくれたこともあり、紅葉は念願叶って大学予備門へ入学できた……のですが、入学前から詩作や文学に浸りきっておりました。

これにより紅葉は文壇への道を歩み始めたので、結果オーライでしょうか。

 


「我楽多文庫」が話題となり

明治十八年(1885年)からは同好の士と共に雑誌『我楽多文庫』を創刊。

最初は肉筆で(!)作っていたそうで、後に好評を得て活版で出せるようになったといいますから、相当のものだったのでしょう。

出版社・吉岡書店の目に留まり、

「君たち、ウチが今度出す小説の叢書(そうしょ・シリーズ本のこと)で書いてみないか?」

とお声がかかります。

そして、その第一弾として『二人比丘尼 色懺悔』(→amazon)という作品が出版されました。

比丘尼=尼僧=聖職者と”色”懺悔とは、なかなか倒錯的なタイトルですよね。

これは、偶然同じ武士に恋をしていた女性二人の物語です。

その武士は戦で命を落としてしまい、女性たちは髪を下ろして菩提を弔うことに。そしてあるとき、一方の女性が他方の家に宿を借りたい、と頼んできたところから始まります。

紅葉のアピールポイントとしては「時代を定めない」こと、そして「この小説は涙を主眼とする」ということでした。

ものすごくざっくりいうと、大人向けの民話のようなイメージでしょうか。

外から見ると、この小説にはもう一つ特徴があります。

会話は口語体、地の文は文語体になっているのです。

現代人から見ると、当時の仮名遣いに目が行って、なかなか気づきにくいところですが、実はこれが画期的なことでした。

 

「金色夜叉」がベストセラーに

こうして物語の内容と文体で注目を浴びるようになった紅葉は、流行作家として歩んでいくことになります。

同時期に、井原西鶴の作品を多く読み、影響を受けたとも。

※以下は井原西鶴の事績まとめ記事となります

井原西鶴
井原西鶴はゲスいゴシップ小説だから売れっ子作家になれたのか?

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大学の方は?と言えば、編制が変わったことなどもあり、あちこちに編入したり転科したりして、結局、退学してしまいました。

在学中から読売新聞で作品を発表していたので、通学する意義が見いだせなくなってしまったのかもしれません。

きっちり通ったところで、卒業後は作家になったでしょうしね。

その後は、源氏物語によって心理描写を主体とする作風に変わってゆき、最も有名な作品を書くに至ります。

おそらく皆さんご存知でしょう。

『金色夜叉(→青空文庫)』です。

貫一お宮の像

この話は、一言でいえば

「お金と愛、どちらを取るか悩んだ女性と、純情な青年の物語」

というところでしょうか。

近年のドラマでもたびたび取り上げられるテーマですよね。

日清戦争後、急速に資本主義が進んでいた当時の世情に合致したこの作品は、紅葉で一番のベストセラーとなりました。

しかしその人気ゆえに、紅葉は金色夜叉の続編を書き続けなければならなくなります。

現代のマンガ業界などでもままある話です。

 


塩原や修善寺などで温泉療養をしながら胃癌で

読者からの続編の要望は、大きなプレッシャーとなったのでしょう。

紅葉は心身ともに身体を弱めてしまい、塩原や修善寺などの温泉で療養を試みます。

しかし、間もなく胃がんと診断され、実にその7ヶ月後に亡くなってしまいました。

秋田の玉川温泉のように「がんに効く」といわれる温泉もあるものの、一般的にガンなどで体力の落ちた人は、温泉に入らないほうがいいとされています。

つまり、療養するつもりが、どんどん命を縮めてしまったことになるわけで……皮肉なものです。

ただ、そのおかげ(?)で紅葉が金色夜叉を書いた宿は、作中の名前である「清琴楼」となり、紅葉の泊まった部屋を今に残してくれています。

見学のみだそうですが、在りし日の紅葉を偲ぶために訪れるのもいいかもしれません。

塩原清琴楼HPより引用

塩原清琴楼HPより引用(→link

塩原は他にも多くの文人が訪れており「塩原もの語り館」でそれぞれのエピソードを見ることもできますよ。

どの作家か忘れてしまったのですが、「隣の客の宴会がやかましくて宿を変えた」という人の話もあったような……。

静かに塩原を楽しみたい方にはオススメです。


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【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
尾崎紅葉/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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