明治36年(1903年)10月30日は、作家の尾崎紅葉(こうよう)が亡くなった日です。
彼が意識したわけではないでしょうが、まさに紅葉の時期に亡くなったことになりますね。
それだけでなんとなく風流なイメージもありましょう。
実はカレ、結構アバンギャルドな生涯を送っていました。
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父親に反発していた尾崎紅葉
尾崎紅葉は1868年1月10日(慶応3年12月16日)、現在の東京都芝大門に生まれました。
父親は根付(ねつけ・小物を帯から吊るすときに使う留め具)を作る職人と、幇間(ほうかん)という職を兼ねていたそうです。
幇間とはいわゆるお座敷遊びをサポートして、客を楽しませる職業のこと。
芸者さんの女房役みたいな感じですね。
紅葉にとっては好ましいものではなく、父の仕事について語ることを避けていたそうです。
もう少し前の代では米か呉服を扱う商家だったそうなので、もしかしたら「落ちぶれた」と嘆いていたのかもしれません。
母とは早くに死に別れ、母方の祖父母に育てられたことも、父に反発する理由の一つになっていそうです。
父親ならば、紅葉の育成を考えて預けたのでしょうが、子供の頃ってそういうことがわかりませんものね。大人になってわかるようになったとしても、わだかまりになりやすいですし。
学校には真面目に通っており、日比谷高校の前身にあたる東京府中学の一期生になりました。
しかし、ここでの教育は肌になじまなかったようで、府中学を辞めて別の場所で漢学や漢詩・文、英語などを学んでいます。
そして大学予備門(現在の東大)入学を目指します。
幸い、母の実家の知人が学費を援助してくれたこともあり、紅葉は念願叶って大学予備門へ入学できた……のですが、入学前から詩作や文学に浸りきっておりました。
これにより紅葉は文壇への道を歩み始めたので、結果オーライでしょうか。
「我楽多文庫」が話題となり
明治十八年(1885年)からは同好の士と共に雑誌『我楽多文庫』を創刊。
最初は肉筆で(!)作っていたそうで、後に好評を得て活版で出せるようになったといいますから、相当のものだったのでしょう。
出版社・吉岡書店の目に留まり、
「君たち、ウチが今度出す小説の叢書(そうしょ・シリーズ本のこと)で書いてみないか?」
とお声がかかります。
そして、その第一弾として『二人比丘尼 色懺悔』(→amazon)という作品が出版されました。
比丘尼=尼僧=聖職者と”色”懺悔とは、なかなか倒錯的なタイトルですよね。
これは、偶然同じ武士に恋をしていた女性二人の物語です。
その武士は戦で命を落としてしまい、女性たちは髪を下ろして菩提を弔うことに。そしてあるとき、一方の女性が他方の家に宿を借りたい、と頼んできたところから始まります。
紅葉のアピールポイントとしては「時代を定めない」こと、そして「この小説は涙を主眼とする」ということでした。
ものすごくざっくりいうと、大人向けの民話のようなイメージでしょうか。
外から見ると、この小説にはもう一つ特徴があります。
会話は口語体、地の文は文語体になっているのです。
現代人から見ると、当時の仮名遣いに目が行って、なかなか気づきにくいところですが、実はこれが画期的なことでした。
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