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【高野長英】
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硫酸で顔を焼いた!?
弘化元年(1844年)6月末、牢屋の下働きをしていた男に金を与えて放火させ、切放しが行われたところで見事逃げおおせます。
「切放し」とは、大規模火災などの際に囚人の命を助けるため、一時的に釈放することです。現代の刑務所でも似たような制度がありますね。
といっても、この頃は既に人相書きで高野長英の顔が広く知られていたため、硫酸で顔を焼いて逃げたなんて話も。
想像するだけで痛すぎるのですが……(´・ω・`)
当然、長英の差し金であるということはすぐにバレてしまいます。
幕府批判までならともかく、脱獄と放火は現代でも重罪の代表格。いかに高い志と見識があるとはいえ、幕府としてもそう簡単に逃すわけには行きません。
しかし、長英にも雌伏した期間の分だけ、意地と根性があります。
いったん江戸から逃げた後も、志を同じくする田原藩医・鈴木春山の支援を受け、江戸に再度潜入していました。
この間も翻訳や著作を行っているのですから反骨精神が半端ないですね。
幸い、鳴滝塾での兄弟弟子だった人づてに宇和島藩主・伊達宗城に紹介され、嘉永元年(1848年)2月末までは宇和島にいたようです。ここでも、しばらく蘭書の翻訳に励んでいたとか。
宗城は蘭学や西洋の文化・技術に高い関心を持っていた人ですから、長英の知識を惜しんだのでしょう。
とはいえ、この時代に翻訳ができる人はそう多くありません。
一年も経たずに長英の噂が幕府に察知され、宇和島を去ることになります。
ちなみに伊達宗城は、シーボルトの娘である楠本イネも引き立てていて、さすが幕末の四賢候に数えられるだけありますね。
またもや江戸で見つかり自刃
宇和島を去った後は再び江戸へ。
名を変えて医者として生計を立てていました。
ずいぶんと度胸のあることですが、既に人相書きが出回っている土地で、名前を変えたくらいでは潜伏の意味がほぼありません。
案の定、三ヶ月程度で見つかり、覚悟を決めて自刃した……といわれています。
頭がいい人なのは間違いないので、一介の学者・医師の立場で幕府を批判しても、意見が受け入れられないことくらいはわかったはずなのですけども……。
正義感や一時の感情で身を滅ぼしては、せっかくの学識が活かせなくて勿体ないですよね。
江戸に戻っているのもよくわからないところです。
宇和島もしくは別の地方で、ただの医者として日陰にいれば、少なくとも命は助かったでしょうに、それでは満足できなかったのでしょうか。
途中から医師でいたいのか、幕政に口を出して世の中を良くしたいのかがよくわからず、迷走してる感も否めません。
幕末は「情熱が強すぎて身を滅ぼした」タイプの人が多いですね。
老中の暗殺計画を自らぶちまけてしまった吉田松陰と何だか通じるところもあるような……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
高野長英/wikipedia