享保十五年(1730年)11月27日は、尾張藩の第六代藩主・徳川継友(つぐとも)が亡くなった日です。
尾張藩は家格的には高いのですが「御三家で唯一将軍を出せなかった家」だったりします。
また、将軍候補になりながら、念願を果たせなかった継友自身の評判も、決して高いものではありません。
しかし、そうなってしまった理由も「そこまで言うのはさすがに可哀想じゃない?」と思えなくもなかったりして……その経緯を見て参りましょう。
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40人以上いた兄弟たちの大半が夭折
徳川継友は、もともと跡継ぎになるはずのない存在でした。
父で三代藩主の徳川綱誠(つなのぶorつななり)が子沢山過ぎたので、継友の上に男兄弟が何人もいたのです。
実に十一男という立場。
しかし、この時代の乳幼児死亡率の高さはハンパではありません。
無事に生まれてくればまだいいほうで、いざ生まれても成人前に亡くなる子供はたくさんいました。
全部で40人いた継友の兄弟たちもまた、大半が幼くして命を落としてしまいます。
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そんなこんなで継友の順番が繰り上がり、正徳三年(1713年)、22歳のときに第六代藩主となりました。
江戸時代における武家の男子というのは、次男以下の場合は結構窮屈なもの。
婿養子先が見つかれば、その家で頑張ることもできますが、藩主に何かあったときのための「お控え」として、家にとどめ置かれる人も多かったといいます。
子供が増えまくると藩の財政が傾くので「結婚できず、また高禄も与えられず」という……人生の意義を問いたくなるような生活をしている人も珍しくありませんでした。
継友もそういった生活から一躍藩主の座をゲットしたので、最初はかなり喜んでいたようです。
しかし、喜びすぎて、次の藩主になるはずだった五郎太(継友の兄・吉通の息子)が亡くなった“翌日”に盛大な藩主就任パーティーを開いてしまい、家老に怒られています。そりゃ、そやろ。
七代家継の次は尾張藩からがよいのでは?
一方、将軍家でもこの頃、跡継ぎ問題が起きておりました。
ときの将軍は六代・徳川家宣。
将軍になった時点で48歳になっており、当時の感覚としては「急いで跡継ぎを決めておかないと、何かあったときヤバイ」という年齢です。
家宣の息子は一人しか生き残っていませんでした。
そこで家宣は「私の次は鍋松(後の徳川家継)になるが、昔から幼君の世には問題が多い。こういうときのために御三家が作られたのだから、私の後は尾張家の吉通に任せたい」と言っていました。
しかし、側近である新井白石らが「私どもがしっかり鍋松様をお支えしますので、尾張家にお願いするには及びません」とゴリ押し。
結局、尾張家が将軍になることはありません。
その後、吉通が亡くなり、家継が七代将軍になってよかった……と思いきや、家継は病弱な体質のため、世継ぎをもうけるどころか、成人するかどうかも怪しいと考えられます。
そんなわけで「家継の次代を誰にすべきか?」という話に再び陥っていくのです。
我々後世の一般人からすると「最初から尾張家に頼んどけばよかったじゃん」と思ってしまいますが……。
尾張家は家格が一番高く、また血筋としても御三家の中では将軍家に最も近かったため、世間的には「もし将軍家に何かあれば、尾張家の人が将軍位に就くだろう」と考えられていました。
しかし尾張家の中では「ウチの藩主様が将軍になるとか勘弁」(超訳)という考えも強く、そのため幕閣や大奥などに働きかけていませんでした。
そこに、家宣の正室だった天英院が「次は紀州藩の吉宗殿が良いんじゃなくて?」と言ってしまったため、ものの見事に八代将軍は徳川吉宗に決まります。
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