徳川家康のドラマが描かれるとき、必ずその前に立ちはだかる恐怖の軍団――それが信玄や勝頼の率いる武田家でしょう。
特に【三方ヶ原の戦い】では絶体絶命のピンチに追い込まれ、九死に一生を得る展開。
ならば家康は武田家のことを憎んだのか?
と言ったらむしろ逆で、武勇を誇る一族家臣団を尊重し、実にその縁は江戸期に成熟する文化と相まって幕末まで続きます。
死闘から始まりながら、その後も長く不思議な縁が続いた武田と徳川。
その歴史を振り返ってみましょう。
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信玄の娘・見性院が産んだ勝千代は
天正10年(1582年)2月、織田徳川連合軍は武田家へ攻め込みました。
その直前に、木曽義昌が武田を裏切り、激怒した勝頼が一族を処刑。これを契機に織田軍が木曽から、徳川軍が駿河から武田領へ攻め込んだんですね。
窮地に追いやられた武田軍では、穴山信君(穴山梅雪)が「自身が武田家を継ぐことを条件」に織田徳川軍へ寝返ります。
信君(のぶただ)は武田の親族衆かつ信玄の娘婿です。
『どうする家康』では田辺誠一さんが演じていましたね。
※以下は穴山信君の関連記事となります
穴山信君は卑劣な裏切り者なのか?信玄の娘を妻にした武田一門の生涯
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しかし、同年6月に【本能寺の変】が起きると、上方にいた穴山信君は帰国の道中で野盗に討たれてしまい、その後、穴山家を庇護することにした家康は、家臣と妻子を預かりました。
妻とは、信玄の娘で、信君の正室である見性院。
そしてその息子である勝千代を武田家の後継者として、家康は後見したんですね。
ところが、です。
5年後の天正15年(1587年)に勝千代が享年16で死去してしまい、子も無く、穴山武田家は御家断絶かと思われました。
武田名跡を継ぐはずだった家康五男
臣従に際して穴山信君は、武田家臣である秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿)を側室として家康に差し出していました。
彼女は同盟関係の強化として送られたのでしょう。
天正11年(1583年)、於都摩に男児・万千代が生まれると、家康はその子を見性院に預けました。
信玄の娘を後見人とし、武田を継ぐ大義名分を強化。
残念ながら生母の於都摩は万千代9歳の時に亡くなってしまいますが、武田と徳川の血統と権勢をもって、武田家を継がせようとしたのです。
彼は武田信吉、あるいは松平信吉とされます。
武田の血筋も入り、家康としては一定の期待もしていたでしょう。
しかし残念ながら、生来病弱であった信吉は慶長8年(1603年)、子を残さぬうちに世を去ってしまいます。
享年21。
かくして信吉が治めていた水戸藩は、家康の11男である徳川頼房が治めることとなりました。
『どうする家康』において穴山信君が目立つのも、こうした理由があればこそでしょう。
ちなみに武田家は、信玄の末子である武田信清が上杉家に仕え、米沢藩士として幕末まで存続したのでした。
河窪信俊:鷹の恩返し
父が武田信虎で、信玄の半弟となる武田信実(のぶざね・河窪信実とも)。
徳川家康は、この信実に恩義がありました。
篠瀬(ささせ)という三河武士が浪人となり、信実に世話になったのです。
彼が許しを得て徳川に帰参する際、信実は家康に土産を持たせました。鷹狩りが好きだということを知り、素晴らしい鷹を二羽持たせたのです。
家康は信実の人柄に感服。
恩返しとばかりに、篠瀬に命じ、信実の一族を探します。
こうして信実の妻と子の信俊を見つけ出すと、武田ではなく河窪として召し抱え、旗本家として存続したのでした。
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