徳川家康のドラマが描かれるとき、必ずその前に立ちはだかる恐怖の軍団――それが信玄や勝頼の率いる武田家でしょう。
特に【三方ヶ原の戦い】では絶体絶命のピンチに追い込まれ、九死に一生を得る展開。
ならば家康は武田家のことを憎んだのか?
と言ったらむしろ逆で、武勇を誇る一族家臣団を尊重し、実にその縁は江戸期に成熟する文化と相まって幕末まで続きます。
死闘から始まりながら、その後も長く不思議な縁が続いた武田と徳川。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
その歴史を振り返ってみましょう。
信玄の娘・見性院が産んだ勝千代は
天正10年(1582年)2月、織田徳川連合軍は武田家へ攻め込みました。
その直前に、木曽義昌が武田を裏切り、激怒した勝頼が一族を処刑。これを契機に織田軍が木曽から、徳川軍が駿河から武田領へ攻め込んだんですね。
窮地に追いやられた武田軍では、穴山信君(穴山梅雪)が「自身が武田家を継ぐことを条件」に織田徳川軍へ寝返ります。
信君(のぶただ)は武田の親族衆かつ信玄の娘婿です。
『どうする家康』では田辺誠一さんが演じていましたね。

穴山信君/wikipediaより引用
しかし、同年6月に【本能寺の変】が起きると、上方にいた穴山信君は帰国の道中で野盗に討たれてしまい、その後、穴山家を庇護することにした家康は、家臣と妻子を預かりました。
妻とは、信玄の娘で、信君の正室である見性院。
そしてその息子である勝千代を武田家の後継者として、家康は後見したんですね。
ところが、です。
5年後の天正15年(1587年)に勝千代が享年16で死去してしまい、子も無く、穴山武田家は御家断絶かと思われました。
武田名跡を継ぐはずだった家康五男
臣従に際して穴山信君は、武田家臣である秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿)を側室として家康に差し出していました。
彼女は同盟関係の強化として送られたのでしょう。
天正11年(1583年)、於都摩に男児・万千代が生まれると、家康はその子を見性院に預けました。
信玄の娘を後見人とし、武田を継ぐ大義名分を強化。
残念ながら生母の於都摩は万千代9歳の時に亡くなってしまいますが、武田と徳川の血統と権勢をもって、武田家を継がせようとしたのです。
彼は武田信吉、あるいは松平信吉とされます。
武田の血筋も入り、家康としては一定の期待もしていたでしょう。
しかし残念ながら、生来病弱であった信吉は慶長8年(1603年)、子を残さぬうちに世を去ってしまいます。
享年21。
かくして信吉が治めていた水戸藩は、家康の11男である徳川頼房が治めることとなりました。

徳川頼房/wikipediaより引用
『どうする家康』において穴山信君が目立つのも、こうした理由があればこそでしょう。
ちなみに武田家は、信玄の末子である武田信清が上杉家に仕え、米沢藩士として幕末まで存続したのでした。
河窪信俊:鷹の恩返し
父が武田信虎で、信玄の半弟となる武田信実(のぶざね・河窪信実とも)。
徳川家康は、この信実に恩義がありました。
篠瀬(ささせ)という三河武士が浪人となり、信実に世話になったのです。
彼が許しを得て徳川に帰参する際、信実は家康に土産を持たせました。
鷹狩りが好きだということを知り、素晴らしい鷹を二羽持たせたのです。
家康は信実の人柄に感服。
恩返しとばかりに、篠瀬に命じ、信実の一族を探します。
こうして信実の妻と子の信俊を見つけ出すと、武田ではなく河窪として召し抱え、旗本家として存続したのでした。
歓迎される武田家関係者
武田家の血を引く者や旧家臣は滅亡後、各地で歓迎されました。
敗れはしましたが、むしろその武勇を抱えたいとして、徳川だけでなく多くの家が探し求めたのです。
著名なところでは以下の二名が該当します。
・大久保長安
猿楽師の父を持ち、武田家のお抱えとなり、さらには徳川家に仕えて異例の大出世を遂げる。
そんな立身出世を体現した人物です。
彼の死後、不正蓄財疑惑により家は断絶。七人の子は切腹となりました。
諸大名を巻き込み、改易まで出した江戸初期の大事件であり、【大久保長安事件】として後世に知られます。
・柳沢吉保
五代将軍・徳川綱吉に側用人として仕え、県勢を振るったのが柳沢吉保。
その祖は甲斐武田氏・武川家の出身とされます。

柳沢吉保/wikipediaより引用
綱吉に引き立てられ、徳川一門にしか与えられてこなかった甲府の大名にまで上り詰めました。
異常な寵愛とされてはいますが、綱吉としては先祖由来の土地だという思いがあったのかもしれません。
柳沢吉保夫妻の墓は、恵林寺にある信玄の墓のそばにあります。
これ以外にも、武田遺臣たちの多くは再就職先を見つけました。
井伊の赤備え
大河ドラマ『どうする家康』の武田家臣は多くが赤備えを身につけていました。
本来は飯富虎昌など、限られた猛者だけに与えられたトレードマークであり、誰も彼もが着用したわけではありません。
飯富虎昌は、信玄の嫡男・武田義信の失脚に伴い、傅役を務めていたことから罪に問われて自刃。
その後、赤備えを継いだのは、虎昌の弟あるいは甥とされる山県昌景です。

山県昌景/wikipediaより引用
三方ヶ原の戦いで徳川軍を恐怖のどん底に叩き落とした武田軍。
このとき別働隊を率いて暴れ回ったのが山県昌景であり、徳川家康は、目をかけていた井伊直政に赤備えを許します。
井伊に仕えた武田遺臣の中に、山県昌景の家臣がいたからです。
流れとしてはこう。
飯富虎昌
↓
山県昌景
↓
井伊直政
武田家臣の誇りを胸に【大坂の陣】に参戦していた真田信繁(幸村)も、赤備えを身につけていました。
本来の赤備えは我々である――そう高らかに宣言した勇姿は、江戸時代からずっと胸を打つものであり、さまざまな作品のモチーフとされています。
現代では2016年の大河ドラマ『真田丸』が印象深いものでしたね。堺雅人さん演じる幸村が赤備えを身につけ突撃する姿は実に颯爽としていた。

真田の赤備えはフィクションの中で支持され続ける一方、井伊の赤備えは現実の中でくすんでゆきます。
幕末になると、殿様である井伊直弼が【桜田門外の変】で討たれてしまいました。
京都を守るという重責を果たすこともできなくなり、会津藩にその役目が押し付けられます。
そして維新前夜の戦場で、井伊の赤備えは時代錯誤の代名詞となりました。
家格を持ちだして威張るくせに、ろくに実践的な装備もしていない。偉そうなくせにすぐさま負けてしまう。
見た目が派手なだけに、その無様さは笑いものとされてしまったのでした。
フィクションで人気が出る武田と落ちる上杉
目線を幕末から江戸時代へ戻しましょう。
この時代は泰平の世に入り、出版文化も発達。戦国武将たちの活躍も、演劇や浮世絵として定番となりました。
甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、その中でも“映える”人気題材です。

武田信玄と上杉謙信 photo by お城野郎(R.FUJISE)
そうやって川中島を楽しんでいた江戸っ子の間で、上杉の人気が暴落する事件が起こります。
元禄14年(1701年)の【赤穂事件】です。
このときの米沢藩主・上杉綱憲は、吉良義央の実子であり、養子縁組で上杉家に入っていました。
赤穂事件を題材にしたフィクション作品『忠臣蔵』では、上杉綱憲が父のため援軍を送ろうとしたものの止められてしまう場面が入ります。
「なんでェ、親父が危機だってのにだらしねェなァ!」
江戸っ子はそう呆れ果て、こんな落首まで作られたのです。
景虎も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて出(いで)もやらねば
景“虎”も、すっかり“猫”になっちまったなぁ。長いしっぽ(謙信の実家である長尾家とかけてある)を引っ張って出てこられないなんてよォ!
こうも江戸っ子に馬鹿にされてしまったことは、気の毒な話でした。
メディアが発達した江戸時代は、そのせいで人気が上下するようになったのです。
幕末、武田ブランドの明暗
武田をルーツとする人物は、いったん改姓するも、復姓した家もあります。
当初は滅びた家であった武田が、むしろ徐々に誇れるブランドになっていったのでしょう。
板垣信方の子孫であるとされる、土佐藩の板垣退助はその代表といえます。

板垣信方(左)と板垣退助/wikipediaより引用
悲惨な代表例としては、水戸藩の武田耕雲斎がいます。
彼は武田家の家臣である跡部氏の出身だとして、武田姓を名乗ることとしました。
水戸藩は、当初、武田信吉が治めた土地でもあり、光圀も信吉を丁寧に弔うほど。武田のルーツは水戸でより一層誇り高いものとなったのです。
そんな武田耕雲斎が巻き込まれたのが【天狗党の乱】でした。
幕末の水戸藩では、激しい内部抗争が起きています。その一派である暴発した天狗党に担ぎ上げられ、武田耕雲斎は徳川慶喜がいる京都まで向かうことになりました。
このとき、彼は美々しい軍装を身につけました。
武田信玄が使ったという馬印。
掲げられた「奉勅」という旗。
馬には銀覆輪の鞍をつけ、緋縅に武田菱をあしらった甲冑を着込み、そして金色の采配。
その姿はまるで戦国時代の武田家が蘇ったように思えたことでしょう。
しかし、現実に何世紀も経過しています。
【天狗党】は頼りにしていた徳川慶喜から追討命令を受け、酷い結末を迎えることに……。武田耕雲斎にとって、武田由来の軍装は黄泉路へ向かうものとなったのでした。

武田耕雲斎像(左)と天狗党員の墓/wikipediaより引用
武田ルーツ同士が咲かせた幕府最期の華
将軍様のお膝元であることが誇りであった関八州は、幕末に向かうにつれ、治安が悪化してゆきました。
自衛の必要性を感じた彼らは、豪農までもが剣術や兵法を習得し始めます。
そんな中、江戸っ子からは「べえべえ剣法」とコケにされつつも、無類の強さを誇る流派が多磨にありました。
八王子同心が犯人逮捕のために磨き上げた天然理心流です。
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真偽不明ながらも、こうした関東の猛者たちにはある誇りがありました。
自分たちは、家康が治安維持のために連れてきた武田遺臣がルーツである――
そんな中でもリーダーシップがあった道場主・近藤勇は、門人たちを率いて【浪士組】に応募。そのまま京都に残ります。

近藤勇/Wikipediaより引用
彼らを庇護したのは、京都守護職・松平容保でした。
会津藩お預かりとなったことに、近藤は湧き立ったことでしょう。
会津藩が大藩だからだけではありません。藩祖の保科正之は、あの信玄の娘である見性院が育てました。そして武田遺臣である保科家に預け、そこで育ったのです。
秀忠の子でありながら、正之は保科姓を名乗り続け、松平に改姓するのは二代目からとなります。
会津藩士たちの中には「高遠以来」と名乗る者たちがいました。
保科正之が高遠藩を治めていたころから仕えてきたという意味です。
ちなみに大河ドラマ『八重の桜』主人公である山本八重の家は、真偽はあやしいとされますが山本勘助の子孫を名乗っております。

山本勘助/wikipediaより引用
ともかく彼らには、武田ルーツという共通点があった。多摩出身者と会津藩が結びつき、京都の治安維持と、滅びゆく幕府のために戦ったのです。
徳川幕府が終わりに向かう中、武田ルーツが結んだ縁が武士の華を咲かせたのでした。
甲州流軍学
徳川家康の魅力の一つとして、滅ぼした武田家を丁重に遇したことが挙げられます。
これは単なる美談ではなく、切実な理由もありました。
徳川の軍制設計者ともいえる石川数正が、豊臣秀吉のもとへ出奔してしまったことです。

石川数正/wikipediaより引用
“軍事”という最高機密を保持するには、数正が関与できない、抜本的な改革が必要となります。
そうなると一から考え直すより、武田を活かした方が好都合……ということで甲州流軍学が採用され、徳川のお墨付きを得たのです。
むろん、家康が武田に対して律儀に接したからこそ、残された絆や栄誉もあります。
その伝統が今に生きているからこそ、現代の我々も武田の赤備えや戦ぶり、そして風林火山に心惹かれるのでしょう。
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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他






