【鳥取城の渇え殺し】
という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
豊臣秀吉と黒田官兵衛が対毛利での戦いで行った【兵糧攻め】のことで、文字通り「鳥取城にいた兵士と民間人を餓死させた」というものです。
両武将の悪魔な戦術が炸裂したこの戦い。
詳細は、まり先生の記事に譲るとして……。
秀吉と官兵衛の「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」がエグい 人は飢えると◯肉も喰う
続きを見る
城好きにとっては、一度は行っておきたい名城でもあります。
江戸時代を通じて30万石級の鳥取藩主が住み続けたこのお城。
早速、現地をリポートしてみましょう!
お好きな項目に飛べる目次
32万石の財力をチラつかせる巨大な石垣群
ご覧ください。
デカイですよ!
山頂まですべて城。
That's 鳥取城!
城の前面は博物館や公園になっていたり、三の丸に至っては高校の敷地(ありがち)になっていて、それにあわせて石垣も小さく削られていたり。
これは山頂以外は見るところはないよ――と思わせておいて、
32万石の財力をチラつかせるように巨大な石垣群が見えてきました。
|д゚)チラッ
むむっ!
ひょっこり姿を見せよって、ようやく本気を出して来たな!
城内に唯一復元された門を通り、
いよいよ登城開始です。
この光景、マニアにとっては最高に気分が上がりますね。
↓
全方位石垣!
正面も石垣!
もう、全方位から鉄砲攻撃を受けたいの。
「いいね!」ボタンがあったら間違いなく連打するでしょ、この光景は。
ちなみにこの石の積み方は1700年代~幕末にかけての積み方で、
角石を他方の角石に沿って加工する手法だそうです。
つい登りたくなっちゃう石垣だよね
二の丸の北側に珍しい「登り石垣」を発見しました。
これはもうwikipediaに追記しなくてはいけませんね。
ちなみに但馬の竹田城にも登り石垣が現存するようですが、こちらは崖下の危険な場所にある上に、入場制限でそもそも行けないというハードルの高さ。
鳥取城の登り石垣は散歩しながら行ける上に、階段っぽいのでついつい登ってしまう子供や城マニア多数です(自分調べ)。
微笑ましいですよね( ^ω^)
二の丸へやってきました。
山を背にした近世城郭はあまり行ったことがないので、山に沿った横長の曲輪というのが不思議な感覚です。
ご覧ください。
櫓台の向こうにみえる校庭が三の丸です。
但馬の出石城も同じような形状ですが、あちらは有子山の北側に城を構えたため、日が当たらず屋敷を日が当たる場所までずらしたという冗談のようなエピソードがあります。
鳥取城は久松山の西側に面して建てているので、日は当たります。
やはり北側の二の丸よりも、南側の三の丸や天球丸の方が広々として明るい雰囲気があります。
こちらには「三階櫓」が建っていましたが、
明治時代に撤去されてしまいました。
鳥取県は30年くらいかけて鳥取城を再建する計画があるそうです。
その中にこの櫓の再建も含まれているとか。
私は妄想の力で、三層の櫓が脳内で再現できますので、変にニセモノを建てられるくらいなら別にこのままでも風情があっていいと思っていますが……。
ええ、もちろん。
再建したら真っ先に見に行きますよ(笑)。
そして……城内に石切り場が。
城内に石切り場があるというのも鳥取城の特徴でしょうか。
まさに石垣の地産地消。
これだけの石垣を組めるわけですね。関東の城持ちが見たら羨ましい限りでしょう。
本来はこちら側が大手門から通じる正規ルートなのですが、入り口を間違えたという凡ミスにより、大手門は後回しさせて頂きます……。
鳥取城名物「巻石垣」は球状の形をしている
石垣の再建が進行中です。
遠くの曲輪が天球丸。
チラッとですが、球状の石垣が見えるでしょうか。
あれが鳥取城名物「巻石垣」です。球状の形をしています。
ちなみに「天球丸」の名称はこの石垣から名付けられたのではなく、この場所に住んでいた天球院から名前がつきました。
羽田空港の「羽田」が飛行機が羽ばたいて行くようなイメージからではなく、元々、その場所が羽田村だった、みたいな夢も希望もないような感じです。
※編集部注 羽田マジか!?
天球丸より。
見晴らしがいいですね!
日本の松の木の間のベンチに座りたかったのですが、オッサン二人が何やら話し込んでいたので座れませんでした。
米を買い占め、人口密度を上げ……鬼か……
さて、いよいよ本丸目指して登山開始です。
ここまで秀吉の「渇え殺し」ネタが一切なし。
もう完全に鳥取藩32万石の財力を見せつけられて忘れておりましたよ。
もちろん山頂の本丸も、初代鳥取藩主・池田長吉による築城なので、ここからは戦国時代に戻って兵糧攻めモードで進みましょう。
そう考えると、写真の下の石垣の保護シートがなんだがご遺体袋のように見えてきました……こわっ!
ワイルドライフな山道です。
しかしちょっと登るだけでもう「二合目」。
山頂は近そうだ。
普通におじいさんが散歩していたり、60代くらいのおばさんも一人で元気に登っていましたので、見た目ほど険しくはないです。
本丸へ続く登山道には、
このように多くの石切り場が見えます。
たまに「あ、こいつここ削ろうとして失敗したな」と思うような個所がたくさん残っていますので、「下手だなあ」とツッコミを入れながら進みましょう。
埋もれた古城といった光景ですね。これだけでご飯三杯いけます。
ご飯ついでに……。
三木城を兵糧攻めで落とした羽柴秀吉軍ですが、落城に2年を要したことを反省し、この鳥取城ではより短期での
【兵糧攻め→餓死→降服】
というドSな戦略を立てます。
前回の反省生かして、次回に改善を促す――まさに出世の神様。中間管理職の鑑ですね。
親方信長もそれくらい怖かったんでしょうね。
三木城包囲が長引いた問題点として、
①城に兵糧が十分にあった、
②城兵がそれほど多くなかった、
という2点に着目した秀吉や黒田官兵衛は、ならば鳥取城の兵糧をできる限り減らして、城の人口密度も上げとこうぜ!ということで、因幡中の兵糧を高値で買い占めます。
鳥取城中も「今、米を売って、あとで安く買えば資金に余裕ができるぞ!」ということで、我先にと売りにでます。
しかし、頃合いをはかっていた秀吉軍が城を包囲。
おまけに近所の農民も追いやって鳥取城内に逃げ込むように仕向けます。
気付いた頃にはもう兵糧が少ない上に、人口密度もパンパン。
ここから地獄の改良「渇え殺し」short version が始まります。