親・兄弟・叔父・甥・従兄弟の間で殺し合いを続けてきた――とは以下の記事でも触れましたが、
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その中には源頼朝やその兄弟も含まれるワケで。
建久4年(1193年)8月17日、頼朝の弟・源範頼が伊豆へ配流となり、その直後に誅殺されたと目されています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では迫田孝也さんが真摯な人物として源範頼を演じ、伊豆で畑仕事に精を出した後、無惨に殺害されていましたね。
範頼については配流後の記録が途絶えてしまったため、あの描写でも問題なかったワケですが、にしても一体なぜ、こんな悲劇ばかり起きてしまったのか。
史実の源範頼を振り返ってみましょう。
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源範頼だけじゃない 兄弟全部で10人以上
源範頼は生まれた順でいえば、頼朝が兄、義経が弟となります。
母が異なるのですが、それぞれ
・頼朝1147年
・範頼1150年
・義経1159年
の生まれです。
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この兄弟、実は3人だけではありません。
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子作りだけは至る所できちんとしていたのですね。
その数、軽く10人以上。
源氏を継ぐことになる頼朝の母は、熱田大宮司の娘さんでしたが、義経の母・常盤御前は天皇の奥さんに仕える下働きの身分の低い女性でした。
さらに範頼の母は、遠江(静岡県東部)の宿場の遊女です。
ドラマでも、義経から小馬鹿にされるような言われっぷりだったのはそのせいでした。
この当時は、通い婚も続いており、嫡男など一部をのぞいて、子どもの養育は母方が行うことが多かったので、範頼は源氏の一員として育てられておりません。
いつごろ頼朝の軍に加わったのかもハッキリしていませんが、挙兵が1180年で、翌年には頼朝の命により下野(栃木県)で軍事行動を起こしているので(『吾妻鏡』)、挙兵直後から合流していたのでしょう。
一ノ谷の戦い 総大将は義経ではなく源範頼
1184年には頼朝の代官として、先に都入りした源氏一門・木曽義仲の追討作戦を、義経と共に行っています。
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対平家の【一ノ谷の戦い】(神戸市)で源範頼は「大手大将軍」となって敵の主力を引きつけ、義経が背後をまわって挟撃するなど、見事な連携を見せました。
このあたり母親が違うとはいえ、さすが兄弟という感じでしょうか。
範頼は総指揮、義経は機動力と得意分野が違ったからこそ、うまくいったのかもしれません。
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この後、平家滅亡をはさんで、義経は頼朝と対立し、範頼は頼朝に従い続けました。
頼朝はこのあたりから「何をするにもオレに報告してから決めるように!」と言いつけていて、それをきちんと守りました。
反対に義経は「自分のことは自分でできるし~?」などと反抗しています。
平家を滅ぼして、さぁ家中をまとめようと意気込む頼朝にとっては邪魔そのもの。しかし、義経は頼朝の考えを理解することができませんでした。
範頼はこの頃、戦後処理のため九州にいて「海が荒れてるから、帰るのは遅くなりそうです」というような細かいことまできちんと報告するマメさです。
この対照的な反応がますます頼朝の中で、二人の印象を際立たせたのでしょう。
そんな範頼も、一度だけ頼朝に逆らったことがあります。
義経の追討を命じられたときです。
短い間であっても、共闘した弟を討てるほど冷徹な人物ではなかったのかもしれません。
皮肉なことに、その優しさがきっかけとなって自分の評価を落としていってしまいます。
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