エリック・サティ

エリック・サティ/wikipediaより引用

音楽家

曲のタイトル無茶苦茶すぎ!奇人エリック・サティと夢心地なメロディ

1925年(大正十四年)7月1日は、作曲家のエリック・サティが亡くなった日です。

彼の場合、本人の名前より、作品を出したほうがわかりやすいかもしれません。

例えばこれを書きました。

 

あるいはこれとか。

 

とても穏やかで軽快。おそらく皆様、ドチラかいずれの曲は聞いたことがおありでしょう。

それだけにこの曲の作曲家・サティもなんとなくそんなイメージを抱くかもしれませんが、ところがどっこい、彼は同時代のみならず現代でもいわゆる「奇人」という評価が定着しています。

天才芸術家にありがちな奇人。サティは、一体なにをしたんだ!

先に彼の自画像だけ掲載しておきましょう。音楽家であって画家ではないことご理解ください。

エリック・サティの自画像/wikipediaより引用

 


オルガン聴きたさに教会へせっせと

サティはフランス人の父とスコットランド人の母の下に生まれました。

幼い頃に母とは死に別れ、祖父母に預けられて育成。

生まれがイギリスだったので、出生当初はイングランド国教会の洗礼を受けていたのですが、このときカトリックに改宗しております。

6歳のときでしたから、本人の意思というよりは祖父母の意向でしょう。

しかし、彼は信仰心の厚いほうではありませんでした。

神の教えより気になったのは、教会のパイプオルガン。

どの曲を好んでいたかまでは残念ながらわかりませんが、オルガン聴きたさに教会へ通うようになったといいますから、傍目には敬虔な信者に見えたかもしれません。

そして、そのうち彼の特性に気付いた祖父は、サティに音楽を学ばせてくれました。

順当に行けば、他の作曲家と同じようにお決まりのコースを歩んでいたのでしょう。

しかしここで、祖母が謎の溺死を遂げるという悲劇が起きます。

サティはまだ12歳でした。

 


パリの超名門校へ入学するも「ツマラン!」→退学

トラウマを植えつけることがないようにとの気遣いか。

厄介払いとしてちょうど良いタイミングだと思ったのか。

祖父はこれを機にサティをパリにいる父の下へ送り返しました。

音楽好きなことは伝えられていたらしく、翌年、パリ音楽院へ入学すると、「退屈すぎるから」という理由で勝手に退学。

同校は名門中の名門で、どんなに才能があってもフランス人しか入学できなかったほどの音楽学校です。

この辺から既に、サティの価値観が常人とはかなり異なることがわかりますね。

しかし音楽が嫌いになったわけではなかったので、作曲は続けました。

また、食い扶持を稼ぐために、酒場のピアニストとして働き始めます。

シャ・ノワールというお店では、多くの文化人や芸術家と交流し、相互に影響を受け与えたのでした。

 


ピアニストとして働き始め、奇妙なタイトルが増えていく

この頃に生まれたのが、上に挙げた「ジムノペディ」などです。

曲名の単語自体は彼の造語ですが、古代ギリシアの「ジムノペディア」というお祭りから着想を得て書いたのだとか。

お祭りといっても詩の朗読などが含まれ、儀式に近いものだったので、ジムノペディも非常にゆっくりとした穏やかな曲になっています。

もしかすると、ピアニストとして働き始めて生活が安定し、落ち着けたサティの心境も現れているのかもしれません。

が、この後から彼の最大の特徴である「奇妙なタイトル」の曲が増えていきます。

余程大きな心境の変化があったと思われるのですが、恐らく最大の原因は、シュザンヌ・ヴァラドンという女性との出会いと別れだったと思われます。

彼女は画家として有名なモーリス・ユトリロの母で、自身も画家でした。

しかしユトリロの父親がわからないほど「恋多き女」だったシュザンヌは、サティとは半年程度で別れてしまいます。

サティはその独特の感性からか、よほど彼女にベタ惚れだったのか、この間に300通もの手紙を書いていたそうで。

単純計算で一日一通以上になりますが、それを届けようとはしなかったというのが、また凡人には解せないところです。

形式は手紙であっても、サティは日記のつもりで書いていたのかもしれませんね。

 

「干からびた胎児」に「あらゆる意味にでっちあげられた数章」

シュザンヌと付き合っていたと思しき頃から書かれた曲の中に、某ムダ知識の泉番組で紹介されて有名になった「ヴェクサシオン」があります。

「嫌がらせ」という意味の通り、1分程度の短いフレーズを840回(!)繰り返すという、これまた常人には考え付かないような曲です。

単純計算で840分=14時間かかるので、演奏された例は多くありません。もちろん一人で弾くのは不可能ですから、大体の場合10人以上のピアニストが交代で演奏するようです。

某番組では3人でやるという無茶振りだったせいか、演奏終了後サティを嫌いになった人がいるとかいないとか。

これだけなら脳みそが異次元に行ってしまったアレな人ですが、前出の「ジュ・トゥ・ヴー」はヴェクサシオンの後に書かれた曲だったりします。

この辺の極端さが彼に対して「解せぬ」と思う人が多い最大の理由でしょうね。

とはいえ、奇妙なタイトルの曲が圧倒的に多いのは事実なんですけども。

奇妙っぷりの一例を挙げるとこんな感じです。

「梨の形をした3つの小品」←ただし7曲ある

「快い絶望」←ドMでしょうか

「干からびた胎児」←人間のとは言ってませんけれど

「官僚的なソナチネ」←どういうことだってばよ

他にも

「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」

「あらゆる意味にでっちあげられた数章」

など、例を挙げればキリがありません。

中には

「はた迷惑な微罪」

「最後から2番目の思想」

など、厨二もとい哲学を感じるようなタイトルの曲もあるのですけどね。

この中で「梨の形~」については、こんなエピソードがついています。

 


「梨の形をした3つの小品」は形式を大事にしてるだろぅ~?

サティと交流の合った芸術家の中に、クロード・ドビュッシーがいました。

ドビュッシーもパリ音楽院にいたエリートで、理論を大切にするところがありました。

そのためあまりに奔放な曲ばかりを作るサティに対し、「君はもっと形式を大切にするべきだ」と言いました。

そこでサティは「梨の形をした3つの小品」を書いてみせ、「どうだ、”形”があるだろう」と自慢げにしていた、というものです。

屁理屈といえないこともないですが、形式ばかりにとらわれるなんて御免だ、と言いたかったのでしょうね。

ドビュッシーは、私生活ではかなりぶっ飛んでいた方ですが、それはまぁ、余談ですので以下の記事を……。

ドビュッシー
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ドビュッシーに言われたことが気になったのか。

サティは40代に入って再び音楽を学び始めます。

学んだ先はパリ音楽院ではなく、スコラ・カントルムという別の学校でした。

こちらは元々パリ音楽院に反感を持つ音楽家が創設したものだったので、サティの気性にも合ったようです。

大方の予想に反し、四年間真面目に学びました。

教授たちはサティの変人ぶりを知っていたので、戦々恐々としていたようです。

まぁ、そりゃあね……(´・ω・`)

 

若い作曲家からは支持されるように

学校を出たからといって、その後の曲が形式張ったものになったりしない――。

それがまたサティの魅力でもあります。

前述の「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」などは、スコラ・カントルム卒業後の曲でした。

そしてこのあたりから、サティの曲が若い作曲家たちに評価され始めます。

いつ頃の話なのかはっきりしないのですが、サティが「家具の音楽」と呼んだ形式の曲がありました。

それまで音楽と言えば静かに耳を傾けるものとされていたのを、サティは「この曲には聞き入らず、おしゃべりを続けてください」と言ったことがあるのです。

しかし良い曲だったので、いつしか人々は聞き入って静かになってしまいました。

サティは「だから喋ってろって言っただろ!」と怒ったそうで、それに従った人がどのくらいいたかどうかはわかりません。

形式にとらわれない曲を作ったサティだからこそ、音楽の聞き方も限定したくなかったのでしょうね。

これがイージーリスニングやBGMとしての音楽の始まりだと評する人もいます。

サティが若い作曲家から慕われるようになったのは、多分このエピソードから「そうか、学校で習った通りにしなくてもいいし、上品にかしこまっていなくてもいいんだ」と思った人がいたからなのではないでしょうか。

現在でもどちらかというとクラシックを学んだ人より、一般人に人気がある作曲家ですしね。

それだけにあまり演奏されない作曲家でもあるのですが、多くの作曲家が手がけている「ノクターン」(夜の情景を思い浮かべて書かれた静かな曲)など、ジムノペディ以外でも聞きやすい曲はあります。

機会があればぜひ聞いてみてくださいね。

ピアノの短い曲が多いので、「クラシックは眠くなるから嫌い」という方にもオススメしたい作曲家です。

 


100本以上のこうもり傘……ってゴミ屋敷かいな

サティの晩年についてはあまり知られていません。

わかっているのは、死因が肝硬変であったことと、59歳で亡くなったこと、お墓がパリ郊外のアルクイユにあること、そして部屋に残された遺品の数々くらいのものです。

サティは生涯独身でした。

そこで友人らが部屋を片付けに訪れたところ、100本以上のこうもり傘や、いつも着ていたのとほとんど同じ形の黒いスーツが何着も出てきたとか。

遺作となった曲の譜面もあり、いくつかは出版されています。

たぶん部屋のほとんどが黒いもので埋まっていたのでしょう。

どこまで異様なんだという気もしますが、遺品を整理してくれるような友人が最後までいたのですから、人間的な魅力もきっとたくさんあったのでしょうね。

ある意味「理想のぼっち生活」を送った人なのかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
エリック・サティ/wikipedia

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