2019年7月に世界文化遺産登録された「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」。
49基からなるお墓群で、その中にはあの有名な仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)も含まれています。
日本一という大きさ!
ということで、小学校の授業でも習うと思うのですが、意外と知られていないのが仁徳天皇そのものなんですよね。
仁徳天皇87年1月16日は、その命日。
生前は一体どんな方だったのか? 振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
皇位継承を譲り合って3年間も宙ぶらりん
応神天皇の子であります。
古代のゴタゴタが絶えない時代ですから、当然のように仁徳天皇の即位までにもちょっとしたトラブルがありました。
『古事記』と『日本書紀』で話の流れが微妙に違うのですが、たぶん日本書紀のほうがわかりやすいので、こちらで話を進めていきますね。
応神天皇にはたくさんの皇子女がおり、中でも可愛がっていたのがウジノワキイラツコという皇子でした。
ウジノワキイラツコは兄弟順だと年少のほうだったため、「私よりオオサザキ兄上のほうが皇位にふさわしい」として、皇位継承を辞退。
このオオサザキというのが、仁徳天皇の即位前の名前です。
しかし、オオサザキは「いや、父上の意志はお前に皇位を渡すことなのだから、お前が継ぐべきだ」と主張し、なんと三年もの間、皇位が宙ぶらりんになってしまいました。
民家に炊煙が立っていないから税金免除
トップがいないのですから政治が乱れるのは必然。
ウジノワキイラツコは「このままでは天下に申し訳ない」として自ら死を選び、結局オオサザキが仁徳天皇として即位した……されています。
いろいろツッコミたい点はありますが、古すぎる時代のことなので仕方ありませんね。
「応神天皇と仁徳天皇は同一人物では?」という説もあります。
そんなこんなで即位した仁徳天皇でしたが、上記のゴタゴタのため、民の生活は荒れまくっていました。
宮殿から「民の家に炊煙が立っていない」=「その日の食べ物にも困っている」ことに感づいた仁徳天皇は、三年間の税を免除し、民の暮らしを立て直せと命じます。
この間、自分の宮殿の屋根さえ直さず、民と苦しみをわかちあおうとしたといわれていますね。
他の時代にもたびたび「天皇は民と苦しみをわかつもの」という例はありますが、こんなに昔からその方針が作られていたことになります。
「弟と譲り合ってた頃に気付いておけば……」という気がしないでもないですが、それは後世から見ている者の視点で野暮な話すね。
女性面ではいささかトラブルも
民の暮らしが楽になった頃の御製として、こんな歌も伝わっています。
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり」
【意訳】高いところから町を見下ろしてみた。家々のかまどに炊煙が立つようになって、やっと民の暮らしも楽になってきたようだ
この歌は別人説や詠み人知らず説もあります。
が、仁徳天皇のやったことが歌の意味と合うからこそ、仁徳天皇御製とされたのでしょう。
ただ、この「情け深さ」は違う面でも発揮されてしまったようで……仁徳天皇は女性が大好きで、皇后イワノヒメの怒りを買ったという逸話が複数あるのです。
元々イワノヒメは独占欲が強い女性だったらしく、仁徳天皇が他に妃を持つことを許しませんでした。
しかし、仁徳天皇はヤタノヒメという異母妹をどうしても妃に迎えたいと考えていました。かつて皇位争いならぬ皇位譲り合いをした弟・ウジノワキイラツコの同母妹だったからです。
ウジノワキイラツコの遺言にも「ヤタノヒメを妃としてくださいますように」とありましたから、イワノヒメに理解してほしかったのでしょう。
これをなかなか理解してもらえず、業を煮やした仁徳天皇は少々強引な手に出ます。
イワノヒメの旅行中に、ヤタノヒメを宮中に迎えてしまったのです。
当然すぐにバレ、イワノヒメは激怒してそのまま家出。
仁徳天皇は機嫌を直してもらうべくいろいろ手を講じましたが、イワノヒメの怒りは収まらず、家出したまま亡くなっています。
これ、ヤタノヒメも相当肩身が狭かったでしょうね……。
仁徳天皇には他にも複数の妃がいますし。
※続きは【次のページへ】をclick!