寛文四年(1664年)3月27日は、旗本奴の水野成之(なりゆき)が切腹した日です。
祖父は、あの水野勝成さん。
父親の家臣をぶっ殺し諸国を放浪した、戦国一の暴れん坊として戦国ファンにはお馴染みの方ですが、さすがそのお孫さんだけあってド派手にやらかします。
まずは旗本奴(はたもとやっこ)自体があまり馴染みのない単語かもしれませんので、その説明から見ていきましょう。
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祖父・親子三代そろって傾奇者だったようで
「旗本奴」とは、幕府に直接仕え、将軍にお目見えができる「旗本」のうち、大人になってもヤンチャをし続けた人々のこと。
家を継げない次男や三男が多かったと云われています。
水野成之は長男ですが、父親も旗本奴だったそうなので、これは血筋のなせる業というかなんというか。カーチャンの苦労が偲ばれますね。
旗本奴がド派手で奇抜な格好を好んだところからすると、昭和の暴走族とも似ている感じでしょうか。
無茶な髪型にしたり、化粧をしたり、肩で風を切って歩いたり。
そんなもん20歳あたりで卒業するのが相場だと思うのですが、旗本奴の場合は厨二病が治りきらなかったんですね。
町中を暴れまわるので当然迷惑な存在であり、町人たちからすればそれでも「お武家様」ですから、そうそう逆らうことはできませんでした。
しかも成之の場合、祖父は初代福山藩主・水野勝成ですからね。
全国を流浪した傾奇者武将・水野勝成の生涯~家康の従兄弟は戦国一の暴れん坊
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勝成自身のヤンチャはレベルの違う凄まじさですが、それは戦場に関わっていたからこそ。
十分な功績も上げたからこそ許されましたし、何より勝成本人が徳川家康のイトコという立場ですから、次第に落ち着き、福山藩主になってからは名君とまで称されます。
一方、成之の場合は、かなり状況が違います。
戦国から江戸幕府に変わり、少しずつ社会制度を固めていく中で、将軍のお膝元で武士が良からぬことをやっていれば、いずれしょっぴかれるのは当たり前のこと……と思いますよね?
例えば、成之以前にも、慶長十七年(1612年)には300人ほどの旗本奴が斬首刑に遭っておりました。
有名な町奴・幡随院長兵衛をブッコロス
ところがどっこい、水野成之は確実に人をブッコロしていながら、お咎めを受けていません。
旗本奴と同様に町で暴れ回る町人のことを「町奴」というのですが、成之とその乱暴な仲間たちは、とある町奴の一派と対立。
そして、町奴の中でも、大学受験に登場するほどの有名人・幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)を呼び出して、ブッコロしてしまったのです。
完全に暴力団です。
しかも将軍配下の旗本奴は、町奴と比べてかなりタチが悪いでしょう。
長兵衛をコロしてしまった後も、成之の行動には全く改善がみられませんでしたが、それから7年後にとうとう年貢の納め時がやってきます。
行跡怠慢――つまり「お前の行動はけしからん」という理由で、母親の実家(阿波徳島藩蜂須賀家の江戸藩邸)にお預けになり、それでも態度が改まらないので、ついにお呼び出しがかかってしまったのです。
一体どうなったのか? さすがに身の危険を感じて懲りると思いますよね……。
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