どんなに大きな組織でも、最初の一歩がなければ今日の姿はありません。
今回は戦争から始まった、とある大きな組織に関するお話。
1859年(日本では幕末・文化六年)6月24日は、ソルフェリーノの戦いがあった日です。
さっそく「どこのナニ?」という声が聞こえてきそうですね。
ぶっちゃけ、この戦いそのものより、現在は誰もが知っている赤十字社に関係する出来事としてご存じの方のほうが多い予感がします。
戦闘のことも併せて見ていきましょう。
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サルディーニャ&フランス vs オーストリア
ソルフェリーノの戦いは、第二次イタリア独立戦争の戦闘の一つです。
北部のミラノとヴェネツィアの中間辺りにある同名の町周辺で起こりました。
19世紀までバラバラだったイタリア史全体の流れは以下の記事をご覧ください。
19世紀までバラバラな国だった「イタリア統一運動」の流れをスッキリ解説!
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本日のお話は「それまで他の国に支配されている一方だったイタリアの人が独立しようとして動いた戦争」ということがわかれば問題ありません。
おそらく聞き慣れないのは
「イタリア側の中心となったのがサルディーニャ王国」
ぐらいでしょうか。北西部の同名の島にあった国です。
このときサルディーニャは、オーストリアの支配下にあったイタリア北東部を手に入れるべく、戦いを挑みました。
ナポレオン3世のフランスもサルディーニャに味方したので、
サルディーニャ&フランス
vs
オーストリア
という構図になりました。
これだけなら世界史に名だたる大国同士の大決戦という感じがしますよね?
が、当時の両国のトップは、決して軍事的に有能な人ではありませんでした。
泥まみれの白兵戦で地獄絵図に
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は温厚な人物で、国民からの人気は絶大でした。
一方で戦争は不得意。
「ハンガリー反乱の際に燃え落ちる橋を馬で走って渡った」とか、「ソルフェリーノの戦いでは現地まで来て、部隊を鼓舞して歩いた」とか、度胸がうかがえる逸話もあるのですけれども、それと指揮能力は別の話です。
フランス皇帝ナポレオン3世は、本人の実力以上に伯父であるナポレオン1世の影が大きすぎて低く評価されがちですが、戦の動静をリアルタイムで的確に判断できるタイプではありませんでした。
しかもこの両軍、戦闘の直前までお互いが接近していることに気づかないのですから、もう「gdgdにならないわけがあるだろうか、いやない!!」と無駄に反語の例文を作りたくなるような有様です。
この時代になると火器もずいぶん発展していますから、闇雲に撃つだけでも相当の被害が出ます。
そうこうしているうちに市街戦が始まり、混戦の中でフランス軍が一時は優勢に。
再び戦場が市外になったところで雨が降ってきてからは泥まみれの白兵戦となり、犠牲者がさらに増え続け、まさに地獄絵図でした。
激しい戦闘の後には雨が降ることが多いですが、戦闘中に降り始めるともはや止めようのないカオスに陥ります。
ちょっとした町が丸ごとひとつ消えるぐらいの死者が出る
こうなると、あとは大将の根比べで。
先に諦めたのは案の定フランツ・ヨーゼフ1世でした。
血と泥だらけの戦場のど真ん中は、やはり皇帝には刺激が強すぎたようです。
彼は撤退命令を出しましたが、未だ雨も風も止まず、撤退というより潰走といったほうが正しいような有様だったとか。
皇帝ですらそんな調子ですから、一般の兵士は言わずもがな。
遺体はもちろんそのままですし、逃げる中で行方がわからなくなった者も数千人単位でいたといいます。
双方合わせた死者・行方不明者は、推定約4万人。
ちょっとした町が丸ごとひとつの戦場でいなくなってしまったようなものですね。
余談ですが、この戦いの戦死者の頭蓋骨を収めた納骨堂があるそうで。
首だけ取って胴体そのまんま放置したんですかね……?
弔うという目的と相反するというか、釈然としないのはワタクシだけでしょうか。
それにキリスト教圏って、宗派関わらず骸骨だらけの修道院とかありますよね。死後の復活はどうした。
話を戻しましょう。
「なぜ、敵も味方も助ける?」「人類は皆兄弟」
戦場はいつでもどこでも悲惨なものとはいえ、この有様を見て、非常に大きな衝撃を受けた人物がもう一人いました。
アンリ・デュナンというスイス人の実業家です。
彼は当時フランスの植民地だったアルジェリアで事業を営んでおり、現地の水利権に関する頼みごとをするため、ナポレオン3世に会おうとイタリアにやってきていました。
わざわざイタリアまで来るからには、戦争中だということも当然知っていたでしょう……すごい度胸。
そしてアンリも、ものの見事にソルフェリーノの戦いを間近で見ることになってしまったわけです。
目の前には、おびただしい数の遺体。
置き去りにされた負傷者。
もしかしたら足がすくんだかもしれません。
しかし、その次にアンリの目に映ったのは、死傷者の救援に動く地元の女性たちでした。
アンリはそのまま彼女たちの間に入ると、1週間ほどソルフェリーノの死傷者を助けて回りました。
それを見た人は、不思議そうに彼に問うたそうです。
「なぜ、敵も味方も助けるのか?」と。
それに対し、アンリはこう答えました。
「人類は皆兄弟だからだ」
ソルフェリーノの戦い3年後に「負傷兵救済国際委員会」を設立
実際のところ、スイス人であるアンリにとってはイタリア人もフランス人もオーストリア人も等しく「外国人」です。
区別する必要性を感じなかったのでしょう。
いや、心の底から「人類皆兄弟」と思っていたかもしれません。スミマセン、心が汚くて。
アンリはこの一件があった後、
「戦場であっても、傷病者を助ける機関があってしかるべきだ」
と考えるようになります。
その考えを『ソルフェリーノの思い出(→amazon link)』という回想録にまとめて自費出版し、ヨーロッパ各国の政治家や軍人に送りました。
邦訳だと「思い出」とされているのですが、意訳するなら「追想」あたりがふさわしい気もしますね。
「思い出」だと何だかすごく美しい話のような感じがしますし(※個人の感想です)
この考えに心を打たれた人が多かったようで、アンリの本はその後11カ国語に訳され、より多くの国で読まれるようになりました。
そしてソルフェリーノの戦いから3年後。
「負傷兵救済国際委員会」というそのものズバリな名前の会が作られます。
現在の赤十字社の原型となる組織です。
キリスト教圏から生まれたものなので、シンボルマークが十字架になったんですね。
ナイチンゲール「奉仕精神だけで続けることはできない」
イスラム圏では「赤十字の考えには賛成だけど、十字架はキリスト教すぎてイヤ」(意訳)ということで、イスラム教のシンボルのひとつである三日月をモチーフとした「赤新月社」となっています。
他には中国だと「紅十字会」だったりします。
中国語で「赤」という字を用いた場合、革命のイメージが強くなるようで、赤い色を示す場合には「紅」を使うのだとか。
日本語で「紅」だと口紅のイメージが強くなりますし、言葉って面白いですね。
他にも各国の事情によって違うマークが使われていることがありますが、最近では世界各国どこでも使えるマークとして「赤水晶」というものもあります。
赤い正方形を傾けた形です。
2005年に作られた新しいものなので、まだ浸透してはいませんが、これなら確かにどの宗教にも関係なさそうですね。
さて、戦場で救護・奉仕活動といえば、フローレンス・ナイチンゲールを思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、意外なことに彼女は赤十字に反対していました。
もちろん、活動内容にケチをつけたわけではありません。
「やる側の奉仕精神だけで善行をし続けることはできない」という、現実的な考えがあってのことです。実に正論ですね。
現在の日本でも介護や医療にかぎらず「ボランティアが何とかしてよ^^」なんて話がたまに出ますが、対価がなければやる気がでない・人が集まらないのは当たり前の話ですよね。
ちなみに日本赤十字社は、西南戦争をきっかけとして、とある二人の武家華族が作ったものです。
そのお話はまた日を改めて。
あわせて読みたい
長月 七紀・記
【参考】
ソルフェリーノの戦い/Wikipedia
アンリ・デュナン/Wikipedia
アンブロワーズ・パレ/Wikipedia
フローレンス・ナイチンゲール/Wikipedia