日本中世史のトップランナーとして知られる本郷和人・東大史料編纂所教授が、当人より歴史に詳しい(?)という歴女のツッコミ姫との掛け合いで繰り広げる歴史キュレーション(まとめ)。
今週のテーマは【大坂の陣で豊臣秀頼を裏切った元大名の浪人とは誰だ!?】です。
オランダの史料から見える大坂の陣
◆大坂の陣、迫真「戦場ルポ」…オランダ人が記述 読売新聞 9月16日(→link)
姫「へー。なるほどねー。オランダに史料が残っているのね。こういう史料を探してみよう、という発想はなかなかないでしょ?」
本郷「そうだね。たしかに。キリスト教関係の史料の重要性は分かっていたけれど、そうか、大坂の陣などの見聞録も残っているんだね」
姫「問題は新しい情報が出てくるか、なんだけれど、『秀頼の数人の大名が赦免が得られると考え、皇帝(家康)側に寝返るために城に火をつけたが、彼らは逃げる前に秀頼によって、その場で(石垣から)落とされて死んだ』とあるわね。これなんか、どう?」
本郷「大阪城天守閣の跡部信・主任学芸員が『徳川家の正史《徳川実紀》などに大坂城内で裏切り者が出たとの記述はあるが、制裁で石垣から突き落とされた経緯は文献上もない』と言われているように、正確な情報とは、ちょっと考えられないかなあ」
姫「秀頼方についた大名、というのはどういうことなのかな?」
本郷「うーん。むずかしいなあ。大坂城に入城した元・大名、というつもりだろうか?」
姫「長宗我部盛親とか、真田信繁(幸村)とか、毛利勝永とかね」
本郷「真田や毛利は大名なのかな-。お父さんの昌幸や勝信が大名だっただけじゃないのかなー」
姫「いやいやいや。信繁はお父さんとは別に1万石あまりを、勝永はお父さんの6万石のうちに1万石をもらっているという話よ。ちなみに『勝信(父)-勝永(子)』という名前も後世の呼び方で、残された文書を見てみると、『吉成-吉政』というのが正しいみたいよ。秀吉の一字をいただいている、と考えれば、とてもいい具合よね」
本郷「くわしいなー。うん。毛利の方はいいとしても、信繁はどうなんだろう。ぼくはあんまり納得してないけれど。それについては、もうちょっと考えさせて下さい。まあ、それはそれとして、彼らが夏の陣で裏切る、なんて史実はもちろんないわけだけど、そんな噂がとびかっていたのかな?」
姫「どうなんでしょう? 夏の陣の時点では明らかに勝負はついていたわけだから。裏切るくらいなら、戦いの前に城を出ているんじゃない? 織田有楽斎と息子の左門なんかは実際にそうしていたわけだし」
本郷「うん。その考えには賛成だな。いわゆる浪人衆に、あの時点での裏切りはあり得ないよね。そうなると、大野治長らの上級家臣のこと?」
姫「大野は1万5000石ね。速水守久ほか七手組の人たちも、万石以上取ってる人はいるわね。そういう人たちを『大名』って呼んだのかしら」
本郷「ふんふん。そうなると、わずかだけれど、思い当たるうさんくさい人はいるなあ。ばっちり当てはまる、というわけじゃあないんだけれどね」
姫「え? 大坂城にいながら、裏切った大名クラスの人っているわけ?」
本郷「まずは南条元忠ね。彼の父は元続といって、鳥取県の倉吉あたりにある羽衣石(うえし)城の城主。中国地方の覇者・毛利家と新興の織田家、どちらにつくか悩んで織田家を選択した。それで、毛利勢に攻められて城を奪われたこともあったけれど、しぶとく生き抜いて、ついに豊臣秀吉のもとで羽衣石城と6万石くらいの領地を得たんだ」
姫「一度織田に賭けたら、初志貫徹して生き残ったのね。めでたし、めでたしじゃない」
本郷「うん。そこまではね。ところが子どもの元忠の代になって、つまづいた。関ケ原で西軍について、所領を没収されたんだな。それで浪人生活の末、大坂城に入城した」
姫「石高はぐんと減っても、幕府の旗本になるとか、どこかの大名の上級家臣になる、って道だってあったでしょうにね。やっぱり羽衣石城に戻りたかったのね」
本郷「だろうなー。気持ちは分かるよね。それで、その気持ちにつけ込んだのが家康でね、大坂城内の元忠に対し、『返り忠をせよ(つまり、大坂方を裏ぎれ)。さすれば伯耆国をやろう』と持ちかけた。元忠はこれに乗ったんだな。でも、大坂方だってバカじゃないから企みはすぐに露見し、切腹を命じられた」
姫「切腹はいつの話? 冬の陣はもう始まっていたの?」
本郷「切腹は冬の陣の終盤の慶長20(1615)年12月3日。この日に徳川・豊臣の和睦交渉が始まって20日に停戦と和睦が成立している。ということは、家康はかりそめの和睦に向けて、精度の高い豊臣方の情報が欲しかったのかもね。褒美は伯耆国、というのは見返りが大きすぎて信じがたいけれど、羽衣石城を返してやろう、くらいの約束はあってもおかしくない」
姫「なるほどねー。だけど、それは、オランダの史料が言うような夏の陣のときの話ではないわけね」
本郷「うん、そうだね。あとね、七手組の組頭、青木一重、伊東長実という人も怪しい」
姫「うん?その人たちは知らないわね」
本郷「あっはっは。さすがのあなたも知らないか。一重の経歴は面白いよー。彼はもともと美濃の武士で、だけど一族から離れ、今川氏真に仕えた。それから家康が今川氏を圧倒し始めると、家康に仕えた。姉川の戦いでは家康の家臣として奮戦している。朝倉家の真柄十郎左衛門(直隆)を討ち取ったのは彼だ、という話がある」
姫「真柄は、豪刀『太郎太刀』をふり回していた朝倉家随一の勇士ね。彼を討ち取ったの?」
本郷「『信長公記』にはそうあるね。それで、そんなにがんばっていたのに、なぜだか徳川家を出奔し、丹羽長秀に仕えたんだ。山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどは丹羽家中として参加。それで、長秀が亡くなると秀吉に仕えて1万石を与えられた」
姫「大名として取り立てられたワケね。秀吉にも彼の名は聞こえていたのね」
本郷「そうだね。だけど、秀吉が死ぬまで、十年以上にわたって加増はなしだから、秀吉は実は、彼を買ってなかったのかもしれないな」
姫「そうか、わりと秀吉って、シビアな面があるものね。長年仕えてくれてご苦労さん、みたいな、年功序列的な加増はしないっていうか」
本郷「そう。それで秀吉が没すると秀賴に仕えて、七手組の組頭の一人になったんだけれど、彼が大坂城で戦ったのは冬の陣までらしい。冬の陣のあとに城を出て、剃髪して隠棲した。すると、家康はこれを召し出して、摂津・麻田藩の藩主として取り立てた。1万2000石。青木家はこのあと、幕末まで続いていくんだ」
姫「あ。この人ももしかしたら、徳川方のスパイかしら? もともと徳川家にいたんだし、秀吉にさほどの厚遇を受けていないし。ぴったりね」
本郷「そうかもしれないなー。ただし、オランダ史料がいう、夏の陣での裏切りではないんだね。豊臣家の家臣の大名、というところには合致するんだけれど」
姫「なるほどねー。じゃあ、もう一人の伊東長実という人も同じような感じなの?」
本郷「そうだね。長実は尾張の武士で、もともとが秀吉の配下なんだ。羽柴時代の秀吉四天王の一人、神子田正治の娘を妻にしている」
姫「あ、おぼえてる。神子田って、この前に発見された脇坂家の文書にも、秀吉が『神子田は追放した。かくまったヤツは同罪だ。おれは信長様のように甘くないぞ』って言及していた人ね。将来を期待されていたのに、失脚しちゃったんだ」
本郷「そのとおり。まあ、その事件がどれくらい関係しているか分からないけれど、長実の出世は遅かった。小田原攻めの時に山中城攻めに参加し、一番乗りの功を挙げ、備中・岡田1万3000石を得たんだ」
姫「あら? 山中城攻めの一番乗りは『槍の勘兵衛』こと渡辺勘兵衛じゃなかったっけ?」
本郷「ぎく!? うん、そうもいうね。まあ、両説あるんじゃないの、あはは・・・。まあ、その後の長実は一重と同じように七手組の組頭になり、大坂落城に当たっても命を長らえ、本領を安堵された。備中・岡田藩は幕末まで続いていくんだ」
姫「彼は冬の陣の後に城を出たの? それとも、落城の時も城内にいたの?」
本郷「よく分からない。でも、落城のどさくさに巻き込まれると死ぬ確率は高いから、夏の陣の時は城内にいなかったのかもね。彼もやっぱり、スパイ疑惑をかけられても仕方ないわけだな」
姫「それで、豊臣を裏切った大名、というのには当てはまるかもしれないけれど、夏の陣に際して殺されたわけではない、と。なるほどねー。なかなかばっちり当てはまる事例が探せないわけねー」
本郷「でも、せっかくの史料だから、その記述を生かすべく、これからも注意してみるようにしよう」