歴史というと、中心となるのはやはり政治家や王侯貴族、そして首都や都市の話。
しかし、どこの国でもいつの時代も、都会に住む人がいれば郊外や地方に住む人もいます。むしろ、第一次産業は後者になればなるほど多数派になりますから、国の基盤といっても過言ではありません。
それに、人の根本的なところは住む場所だけでは変わらないですよね。ということは、都会と同じような問題が、それ以外の地域で起こることもあるわけで……。
本日はそんな感じの出来事を、海の向こうの国の中から拾ってみましょう。
1889年(明治二十二年)11月2日は、アメリカのダコタ準州が州に昇格し、ノースダコタ州とサウスダコタ州になった日です。どちらもアメリカのど真ん中から北にある州で、ノースダコタ州のほうはカナダとの国境があります。
地図をよーく見ると気付くんですが、アメリカって西へ行けば行くほど州の分割単位が大きいんですよね。むしろ、十三植民地だった東海岸以外は、北から南まで4~5の州しかありません。テキトーというかおおらかというか。
日本を含め、アメリカ以外の国では川や山脈を県・州の境にすることが多いので、より際立つような気がします。
「緯度や経度などを基準にし、人工的・直線的に境界を決めた」という点では、アフリカ諸国とも似ていますね。もちろん、アメリカにも川などが境界になっているところはありますが。
地図だけでこれだけの情報が垣間見える、というところが歴史のみならず、社会科系科目の醍醐味かと思います。
前置きが長くなりましたが、そろそろこの地の歴史を見ていきましょう。
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もともとはインディアンが平和に暮らしていた地域だった
ノースダコタ州とサウスダコタ州は、いずれもグレート・プレーンズが大部分を占めています。
アメリカ中部を南北まで、そしてカナダまで続くまさに「大平原」。平地=人が住みやすい土地ということになりますから、西洋人がやってくる前から、この地には多くの人が住んでいました。
インディアンの人々がそれぞれの部族を作り、狩猟や採集、そして交易をしながら暮らしていたのです。
(※該当民族の方々が1977年に「我々はインディアンであり、“ネイティブ・アメリカン”とか“先住民”と呼ばれるのは不本意だ」と公的に表明しているため、当コーナーでは“インディアン”と書かせていただいています)
これは、グレート・プレーンズが川によって土や火山灰が運ばれ、積み重なってきた「堆積平野」だからできたことです。平たくいえば「土壌が豊かなので、動植物が反映しやすく、その恩恵を受けて人間も……」ということになります。
アメリカの野生動物として多くの人が思い浮かべるであろう、バッファローやプレーリードッグなども、多く生息しています。
そうした豊かな暮らしをしていた土地だったので、18世紀に初めてこのあたりに西洋人がやってきた際、その発展ぶりに驚愕したといわれています。
インディアンたちにとっては「おう、新しい商売相手か」ってなもので、西洋諸国との交易も行うようになりました。
1890年には「ウンデット・ニーの虐殺」が勃発
ナポレオンの時代には、ノース&サウスダコタを含む、グレート・プレーンズのほとんどがフランスの植民地となります。これは「仏領ルイジアナ」と呼ばれます。
その頃、北米大陸ではフランスとイギリスがたびたび植民地戦争を行っていました。そしてナポレオンは次第に「今、ヨーロッパで忙しいし、海の向こうの土地を維持するのは難しい。それならアメリカに売って、ヨーロッパでの戦費に使いたい」と考えるようになり、アメリカにこの広大な土地を気前よく売ってしまいます。
こうして、西洋人国家の一部に組み入れられたこの地域は、また別の歴史と問題を抱えることになりました。
都市や鉄道が建設され、経済的には発展したものの、金鉱が見つかったためにいろいろと良からぬことも起きるようになります。具体的にいうと、インディアンに保証されていた土地へ、不法侵入する輩が現れ始めたのです。
人が増えれば問題が増えるのも当然ではありますが、でもねぇ(´・ω・`)
そればかりか、サウスダコタ州では陸軍が力尽くでインディアンの土地をぶんどる始末です。ヒドイ以外に言葉が出ない。
人口の増加によって1889年にノースダコタ州・サウスダコタ州に分かれた後も、インディアンと西洋系の人々による争いは続きました。というか、主に後者が横暴なだけですが。
なんせ、この翌年の1890年には「ウンデット・ニーの虐殺」(ビッグフットへの虐殺)という事件が起きています。白人に対して友好的だったインディアンの一酋長シハ・タンカ(通称が“ビッグフット”)を、白人が勘違いと酒のせいでブッコロしてしまった勢いで、拡大化したものといわれています。
この事件のきっかけは事故だったと言われていますが、当時は「インディアンなんて人間じゃない」という時代ですので、そういう蔑視感情が拍車をかけたことは否定できないでしょう。
この虐殺を行った部隊には勲章まで与えられていますし。
このとき虐殺された人々の遺品は、「貴重なものだから」という理由で白人にぶん取られたままでしたが、1999年になってようやくインディアンに返還されています。
事が事だけに、良かったと言っていいのか微妙なところですけれども。
ちなみに、ウンデット・ニーの虐殺については現場の写真がはっきり残っていて、ウィキペディア先生にも出てくるので、苦手な方は見ないことをおすすめします。
地面が乾く度に火山灰のようなダストボウル
白人によってもたらされた災いは他にもあります。
1930年代には「ダストボウル」という自然現象によって、多くの農作物が被害を受けました。
ダストボウルとは、畑を作るために無計画に草地を刈り取ることによってできた地表の土が、風に巻き上げられて起こる大規模な砂嵐のことです。草が雨を吸収してくれないので、雨が降ってもすぐに乾いてしまい、埃が立ちやすくなるために起こる現象ですね。
「砂嵐」というとなんとなく大したことがなさそうな印象も受けますけれども、何せ量が量。多分写真を見ていただければわかりやすいと思うのですが、一瞬「(゚Д゚)ハァ?」としか反応できないほどの土埃が襲ってきます。
日本人の感覚でいうと、「火山灰が畑に積もってしまって野菜がダメになった」というのがわかりやすいかと。自然現象た原因は別物ですが、被害の種類は似たようなものです。
火山の噴火は一時期に集中して起きますが、ダストボウルの場合は地面が乾くたびに起こるわけですから、たまったものではありません。そんな災害が元々はよそ者である白人のせいとくれば、インディアンたちにとっては「あいつらロクなことしやがらねえ」と思うのはごく当然のことです。
当然、ダストボウルは他の面にも多大な影響を及ぼしました。土煙を吸い込んで肺炎になる人が続出した上、農家は廃業して他の土地に移り、人口が激減してしまいます。これが1930年代という戦間期の話なのですから、にわかには信じがたいことです。
20世紀に10万人ほどのドイツ人が移住して州都がビスマークに
その後、大恐慌によってさらに生活が苦しくなり、他の州へ移り住む人々が増えました。
これまた“幸い”と言っていいのか判断に苦しむところですが、第二次世界大戦では軍需によって農家や工場が儲かるようになり、経済が潤ったそうです。
近年は人口も増え、落ち着いてきているらしいのですが……若者が収入のために他の州に行ってしまうため、農家が減って衰退しつつあるとか、ないとか。
ダストボウルは収まったものの、この地域は竜巻やブリザードなども珍しくないとのことなので、住みやすさを重視する人が出ていってしまうのは仕方のないことなのかもしれません。
その一方で、20世紀には10万人ほどのドイツ人がノースダコタ州に移住してきていたりします。
ノースダコタ州の州都が「ビスマーク」という名前になったのは、偉大なドイツ人として有名なオットー・フォン・ビスマルクの名を取ったものです。日本人にとっては「鉄血宰相」というあだ名のほうが有名ですかね。
ビスマークはアメリカの都市としては治安が良く、観光客も珍しくないとのことなので、いずれここを拠点に、ノースダコタ州やサウスダコタ州が栄えることもある……かもしれません。どちらの州も、犯罪率が高い町はないようですしね。
今の御時世、治安の良さは十分な魅力になりますから、良い方向へ進むといいのですが。
長月 七紀・記
参考:ノースダコタ州/Wikipedia サウスダコタ州/Wikipedia ダストボウル/Wikipedia ビスマーク_(ノースダコタ州)/Wikipedia