1893年(明治二十六年)11月6日は、作曲家のピョートル・チャイコフスキーが亡くなった日です。
『くるみ割り人形』や『白鳥の湖』など、バレエ音楽で特に有名な人ですね。
どちらも印象的なイントロの曲が多いですし、聞いてみると「それ知ってる」と思う方も多いのではないでしょうか。
となると、さぞかし当初から売れっ子だったような感じがしますよね……。
しかし、チャイコフスキーは音楽家としてはかなり変わった経歴をたどっています。
今回はご本人の足跡を中心に見ていきましょう。
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鉱山技師の父に勧められ、勤務先は法務省
チャイコフスキーは1840年、ロシア・ウラル地方のヴォトキンスクという町に生まれました。
モスクワからひたすら東に行ったところにある町で、もう少し東へ行くと、最後のロシア皇帝一家・ニコライ2世らが非業の死を遂げた町・エカテリンブルクがあります。
また、ヴォトキンスクから少し南へいくと、彼の後々の偉業を称えて名付けられた「チャイコフスキー」という町もあります。
西洋圏の名前だとピンときませんが、日本でも同じ漢字で名字と地名のどちらにもなる単語って結構ありますよね。
あるいは、大企業の名が地名に取られたりとか。
閑話休題。
チャイコフスキーの父親は鉱山の技師として働いていました。
それだけに、チャイコフスキーが小さい頃から音楽の才能を示しても、その道に進ませようとはしませんでした。
それでなくてもいろいろな意味で厳しい環境のロシアです。
生きていくには、堅実な仕事に就くのが一番だと考えたのでしょう。
そのため、チャイコフスキーは10歳で法律学校に入れられ、堅い仕事の代名詞ともいえる法律の世界に進むことになります。
19歳のとき無事卒業し、法務省に入っているので、真面目に勉強をしていたのでしょう。
しかし、趣味レベルでの音楽は続けていました。
帝室ロシア音楽協会に加入して音楽の道へ
チャイコフスキー一家の兄弟姉妹は非常に仲が良く、1861年に妹のアレクサンドラが貴族の家に嫁いだ後、チャイコフスキーが何度もその領地を訪れています。
別に彼がシスコンだったわけではなく、義弟にあたる人の持つ土地をとても気に入り、作曲の舞台にしていたからです。
「お気に入りの場所で創作に励む」というのは、芸術家にはよくある話ですよね。
転機になったのは21歳。
たまたま知人から帝室ロシア音楽協会という機関の存在を知り、加入することができたのです。
ここはその翌年に「ペテルブルク音楽院」に改変され、より整った環境で音楽を学ぶことができるようになりました。
彼はそのうち「やはり音楽の道で暮らしていきたい」と強く感じるようになり、そして迎えた23歳、いよいよ法務省を辞めて音楽家としてのスタートを切るのです。
音楽院を25歳で卒業すると、その翌年には帝室ロシア音楽協会モスクワ支部へ。
講師を務めるようになりました。
普通、芸術の分野では高名になってからどこかの学校に招かれ、講師になるというケースが多いですが、チャイコフスキーの場合は逆でした。
仕事の関係もあり、このあたりからはモスクワを中心に活動していきます。
ロシアの他の音楽家たちとも付き合いを始め、徐々に作風も豊かになって参りました。
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