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【チャイコフスキー】
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ピアノ協奏曲第1番(作品23)→「こんなもん演奏できねえよ」
そうした中から生まれたのが、彼の代表作の一つ『ピアノ協奏曲第1番(作品23)』です。
副題や愛称にあたるものがないので、クラシックの専門家や愛好家でないと名前を覚えにくいのが玉に瑕かもしれません。
今でこそよく知られていますが、当時この曲の演奏を頼んだピアニストからは、「こんなもん演奏できねえよ」(意訳)と大不評。
ショックを受けたチャイコフスキーは、気を取り直して別のピアニストに楽譜を送ります。
二人目の人が見事な演奏をしてくれたおかげで、彼は自信を取り戻し、今日までこの曲が残っているというわけです。
もしそこでもボロクソに言われていたら、お蔵入りになっていたかもしれませんね。
ちなみに、一人目のピアニストも後々この曲をレパートリーに入れています。オイオイオイ。
その後、作曲した『白鳥の湖』も、当初は不評でした。
しかし、これは曲がまずかったのではなく、バレエの振り付けや演奏者がダメだったのです。
チャイコフスキーの死後になってから、彼を慕う音楽家の手でそういった面の手直しがされ、現在ほどの知名度になっています。
オペラやバレエなど、他の要素も絡む音楽の場合、こういうこともあるのが難しいところですね。
現在であれば「あの映画、BGMはいいんだけどストーリーが……^^;」みたいな感じでしょうか。
亡くなる9日前に初演された「悲愴」が最高傑作だ!
こうしたことは、チャイコフスキーの音楽にはたびたびつきまといました。
当時は打ち込みや某歌ロイドなどはありませんから、作曲家だけでは音楽を完成させることができません。そのため、チャイコフスキーの作品には初演もしくはそれ以前に酷評を受けたものがたくさんあります。
しかし、最後の交響曲として作った『悲愴』だけは違いました。
何ともいえない不気味さが漂う曲で、これも例に漏れず、初演での聴衆の反応は芳しくなかったそうです。
このときチャイコフスキー、53歳。亡くなる9日前のことでした。
さすがに打たれ強くなっていたのか。
評判を気にせず「これが私の最高傑作だ」と自信を口にしていたといいます。
そもそもタイトルからして「明るい曲ではなさそうだな……」くらいのことを予想して聞くのが、聴く側としての嗜みでは?とも思うのですけれど。
この間、ヨーロッパやアメリカの周遊をした時期もありましたが、最終的にはモスクワから車で1時間弱ほどの町・クリンへ戻ってきていました。
そのため、葬儀もロシアで行われています。
ときの皇帝・アレクサンドル3世によって、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂で国葬が営まれ、埋葬されました。
あまりにも急な死だったので、一時はいろいろ囁かれたようですが、現在ではコレラ及び肺水腫だったとされています。
感染のきっかけが「レストランで生水を飲んだこと」だったらしいので、陰謀の香りがなくもないですが。おお、おそロシア。
せめて「国葬になるほど才能と作品が認められた」ということに対し、本人が満足していればいいのですが。
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長月 七紀・記
【参考】
三枝成彰『大作曲家たちの履歴書(下)』(→amazon)
ピョートル・チャイコフスキー/Wikipedia