スフィンクスと侍

池田ら一行はスフィンクスで記念撮影を(1864年)/wikipediaより引用

幕末・維新

「スフィンクスと侍」幕末のイケメン外国奉行・池田長発がエジプトへ

元治元年(1864年)2月23日は、第二次幕末・遣欧使節団池田隊(池田長発)がエジプト国王イスマーイール・パシャに謁見したとされる日です。

のっけから何だかよくわからん単語が続きますよね……。

とりあえず、かなりのイケメンであることは、以下の画像をご覧いただければおわかりでしょう。

池田長発/国立国会図書館蔵

「スフィンクスと侍」という写真が話題になるなど、何かと絵になった人でもあります。

そんな池田長発(いけだ ながおき)は、激動の幕末でいかなる生涯を過ごしたか?

まずは時代背景から見ておきたいと思います。

 


やっぱり港、閉じてもいい?

このころ日本の外交と言えば?

既にペリーが来航し、江戸幕府があっちこっちの外国から「お付き合いしましょうよ^^(でないと、どうなるかわかってるよね?)」とつつかれていた時期です。

まだ粘りたい幕府は、何とか以前の体制(鎖国≒制限外交)を保とうと、いろいろ試みていました。

具体的には一度は彼らに開放した港を、どうにかしてまた閉じたかったのです。

そこで、旗本の中でも優秀だった池田長発(ながおき)という人物を団長とし、フランスに「一度は横浜を開いたけど、また閉じたいんでよろしく」(超略)という交渉させることにしました。

池田にとっては相当なプレッシャーだったでしょう。

というか、幕府の高官たちも自分たちで誰かやらんのか?という気もしますが……。

 


頭脳とマジメっぷりを活かして出世

もともと池田は小身です。

それが持ち前の頭脳と真面目ぶりを生かして火付盗賊改や京都町奉行を歴任し、外国奉行(今でいう外交官みたいな役職)に登りつめておりました。

捕物や治安維持を担当していたということは、度胸も据わっていたことでしょう。

外国人(西洋人)の彫りの深い顔立ちを「鬼」と勘違いする者も多かった当時、彼らとの交渉では肝の太さも重要な要素だったと思われます。

目鼻立ちがハッキリしていて、なかなかのイケメンです。

このくらいの時代になると、親近感がわくというか、現代でもフツーにいそうな顔の人が出てきますね。写真のおかげでしょうか。

中央が池田長発(池田筑後守)/国立国会図書館蔵

また、この直前の秋に横浜で攘夷派浪士によるフランス士官の殺傷事件(井土ヶ谷事件)が起きており、長発たちはこの件の解決も任されていました。

ことフランスに限らなければ、下関戦争や薩英戦争も、井土ヶ谷事件と同時期に頻発。

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日本全体が外国・外国人に対して神経質になっていた時期といえます。

 


スエズで陸路になってから「スフィンクスと侍」

そんなこんなでフランスへ向かうことになった長発たち。

まずフランス軍艦ル・モンジュ号に乗り、海路で西へ向かいました。

途中で上海やインドに立ち寄りながらも、慣れない超長距離航路とフランス料理で、長発ですら体調を崩していたといいます。いわんや下人をや。

この道中、青木梅蔵という理髪師が日記をつけておりました。

今日の我々からすると「嘘やろwww」と思ってしまうような意味での悲惨なアレコレが書かれています。

いわゆる「シモ」の話も含まれるので、ここでは取り上げませんが、もしご興味のある方はご自身でお調べいただければ。

やっとのことでスエズにたどり着き、そこからは陸路で旅を続けました。

ここで有名な「スフィンクスと侍」の写真を撮っています。なので陸路になってからはだいぶ体調も良くなっていたのでしょうね。

スフィンクスで記念撮影する一行(1864年)/Wikipediaより引用

誰がどう説明したのかわかりませんが、数千年モノの遺跡の上に登るのはどう考えてもマズイんじゃないでしょうか(´・ω・`)

当時のエジプト王イスマーイール・パシャの感想は伝わっていないので、お咎めもなかったようですが。

この頃のエジプトはスエズ運河の工事中でもあり、対外関係でもアレコレあった時期です。そんな折、ちょっと立ち寄った東洋の使節など、全く相手にされていない可能性も高いでしょうね。

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