伊藤若冲『紫陽花双鶏図』/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

平安時代のペット事情|猫は愛され鶏は神秘的で死体処理の犬は忌み嫌われ

2025/02/22

2月22日は「猫の日」です。

「猫」と耳にしただけで思わず顔がニッコリしてしまう人は少なくなく、大河ドラマ『べらぼう』でも吉原の忘八親父どもがニャーニャー言いながら抱っこしていたシーンは印象的でしたね。

あるいは大河ドラマ『光る君へ』でも源倫子(黒木華さん)の愛猫だった小麻呂は大いに話題になりました。

劇中では、平安時代に実際存在していた“毛色”の猫が選ばれていたそうで、放し飼いではなく、赤い紐にくくられていたのも印象的でしたね。

貴族たちもペットでストレス解消していたんだなぁ……と思わせるものであり、さらにドラマを振り返ってみれば、権力欲に塗れた道長の父・藤原兼家ですら鶏に餌をやる瞬間だけは楽しそうでした。

そこで考えてみたいのが平安時代のペット事情です。

平安貴族にとって猫や鶏とはどんな存在だったのか?

犬が登場しなかったのはなぜなのか?

 


「狸」が“タヌキ”でなはく、“ネコ”だった時代

縄文人の復元図には、しばしば犬がお供としてつけられます。

では猫はどうか?

犬も猫も、現代では並列されるペットの王者ですが、実は歴史の長さには差があります。

犬が狩猟のお供となるのに対し、猫は穀物保管との関係が指摘される。

穀物を保管する場所にはネズミが出て、それを狙っているうちに人と共生するようになったのではないか?と考えられています。

貝塚や遺跡からも猫の骨は見つかっています。

例えば、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡から発掘された猫の骨は、紀元前2世紀のものとされます。

日本原種のヤマネコが家畜化したのか。あるいは渡来人が持ち込んで飼育したのか。

稲作が始まった弥生時代に人間と猫の暮らしが確認できることは確かです。

しかし、文献上の記録となると、さらに時代はくだります。

『日本霊異記』(正式には『日本国現報善悪霊異記』)に、猫に転生する話が出てきます。成立は9世紀初頭、平安初期ですね。

はじめは大蛇、次に犬、そして猫に転生して、やっと息子の家に迎えられたという話。

ちなみに、この話での表記は「猫」ではなく「狸」とされます。

中国では古語ではネコを「狸」と記していました。

「狸奴」という表記もあります。

説話のオチに使われるほど、当時の猫は重視されていたことがわかります。

 


「唐猫」唐から来た 邪を祓う神秘の生き物

日本最古の猫自慢とされるのが、宇多天皇による『寛平御記』です。

寛平元年(899年)に怒涛の愛猫自慢が記されています。

太宰大弐・源精(みなもとのくわし)が退任して帰京した際、光孝天皇に黒猫を献上し、息子である宇多天皇が譲られ、それはもう大切にしていたのです。

宇多天皇/wikipediaより引用

宇多天皇はこの猫の観察記録を残したのでした。

他の猫は色が薄いけれども、これは真っ黒! 目はキラキラ!

体が柔らかくて、歩く時は静かでまったく音がしない。鼠もよくとる。丸まっているとどこに手足があるかわからなくなってしまう。

乳製品を与えているんだ。かわいがりすぎと言われるかもしれないが、先帝からいただいたものだから大事にしているんだってば。

朕が話しかけると、わかっているように見返してくる。でも口はきけないんだよな。

猫の飼い主によくある溺愛ぶりと言いましょうか。

猫にありがちなことですら「この子は特別!」だと言い張り、甘やかし、言い訳をし、言葉が理解できると思ってしまうわけですね。

ただし、時代ならではの価値観もあります。

これは宇多天皇の父が、大宰府経由で唐(中国・王朝が交代してもそう呼ぶ)から持ち込まれたものが献上されました。

大宰府正殿跡(都府楼跡石碑)/wikipediaより引用

当時、唐から来たものはステータスシンボルであり、猫もわざわざ【唐猫】と呼んでいた。

黒猫というところも注目です。

古代中国で黒猫は「玄猫」と呼ばれ、「辟邪(へきじゃ)を司る」とされました。

要するに魔除けです。

黒猫は西洋では邪悪とされ、現在でもインスタ映えがしにくいため、人気が低迷しがちとされます。

しかし、東洋では暗闇の中でも輝く瞳が魔除けになるとされ、むしろ幸運のシンボルだったのです。黒猫が結核を治すという迷信も、こうした伝承から生まれたのでしょう。

源精は、はるばる猫を運んできました。

その猫がいかに素晴らしいか、魔除けとなるか、そうアピールしたことでしょう。

宇多天皇が猫の毛色と目の輝きをことさら書き留めたのは、ただのデレデレトークでもなく、由緒あること、魔除け効果抜群だと考えていたからかもしれません。

宇多天皇の愛猫は、猫の歴史を考えるうえでも重要です。

弥生時代の遺跡からも猫の骨が見つかるため、長らく日本の猫はルーツの確定が難しいものでした。

それが近年のDNA解析により決着がついたのです。

海外から渡来し、太宰府を経由し、平安京で飼われるよになった猫が、現在日本にいる大多数の猫の祖先だと判明しました。

DNA解析と文献の記述が一致することからも、まず間違いないでしょう。

御所を往来した猫の子孫たちが今も生きているのです。

 

「御猫」帝に侍るセレブ猫

宇多天皇の飼育している猫は【御猫】(おんねこ)と呼ばれたことでしょう。

中国の皇帝、日本の天皇が飼育する猫に許された由緒ある呼び方です。

中国史には有名な【御猫】(ぎょびょう)がいます。

宋仁宗は、身の軽い展昭という人物を見てこう言いました。

「身が軽いのう。朕の御猫のようだ」

このことから展昭は「御猫」と呼ばれるようになり、「錦毛鼠」の異名を持つ白玉堂との対決は『三侠五義』という作品以来大人気。

宋仁宗の少し前、日本は一条天皇の時代にあたります。

一条天皇/wikipediaより引用

一条天皇が猫を溺愛する様子は、清少納言が『枕草子』「上にさぶらう御猫は」に記しました。

とにかくその溺愛ぶりは相当なものでした。

長保元年(999年)には猫の産養(うぶやしない)まで行われたとか。人ならぬ仔猫の誕生祝いをわざわざ行ったのです。

愛猫の名前は「命婦の御許」(みょうぶのおとど)です。

ちなみに清少納言によれば、最高の猫の毛色は、背中が黒く腹が白い黒白なのだとか。単に彼女の好みなのか、それとも御猫の毛色だったのかもしれません。

御所に侍るからには、五位以上の官位もあり、命婦とは五位以上の女官のことを指します。

この猫が縁側でスヤスヤと寝ていたところ、世話係の「馬の命婦」がこう言いました。

「だらしないなぁ、部屋で寝なさい」

そう声をかけても従わない。そこで犬の翁丸にこう言います。

「翁丸、命婦の御許に噛みついちゃいな」

これに驚いた猫があわてて駆け込むと、一条天皇は猫を抱えて激怒! 猫の世話係を交替させてしまいます。そして命令に従っただけの犬を打ち据えたうえに、流罪としてしまったのです。

残酷なまでの格差がそこにはあります。

犬が放し飼いなのに対し、『光る君へ』に出てくる倫子の愛猫・小麻呂が紐で繋がれていることも猫が大事にされている証です。

紐で繋がれた猫は、『源氏物語』では柏木が女三宮を恋してしまうきっかけとしても登場します。猫の放し飼いが奨励されたのは、江戸初期のことでした。

ではなぜ平安時代の猫と犬には、そこまでの格差がついていたのか。背景は後述します。

 


「金沢猫」書物を守る文人のお供

平安京にいる美しく優美な猫の姿を、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てきた坂東武者たちはどう思っていたのか。

当時の坂東に猫はいなかったと考えられます。

都で貴族に仕える際、紐をつけた猫をみて「なんだかカワイイもんがいるじゃねえか」ぐらいのことは思ったかもしれません。

そんな坂東武者が猫にメロメロになるのは、時代がくだり、宋との交易が成立してから。

北条実時の時代ともなると、坂東武者も書籍に親しむようになります。

北条実時/wikipediaより引用

勉強熱心な実時が創設したのが、日本初の武家文庫である【金沢文庫】――この文庫に納める書籍が宋から輸入され、六浦港に上陸しました。

書籍を鼠から守るため、船には猫も同乗。その姿に、坂東武者も感激するのです。

記録によれば白黒黄の毛色であり、とても素晴らしい三毛猫だったようです。

ものすごく特別な猫だ……とも記録されていますが、これまた宇多天皇と同じく猫あるあるの観察ですね。猫に接する人は冷静さを欠くのでしょう。

こうして、文庫の書物を守る猫は【金沢猫】と呼ばれることになるのでした。日本の武士たちが文人に近づいた証といえます。

西洋では魔女のお供とされてきた猫。

では東洋ではどうか?

というと、鼠から紙を守ることから、文人にとっては理想のお供でした。

宋の梅尭臣は『祭猫』という詩で、書物を守ってくれた愛猫に感謝しつつ、追悼しています。文人がただ単に「猫ちゃん可愛いから欲しい!」と表明するのは照れがある。

そこで文人たちは「書籍を守らねばならん」と言いつつ、わざわざ漢詩に猫が欲しい理由を書いて、塩を持ち、猫をもらいに行くのでした。

昔の中国では、塩と引き換えに猫をもらう慣習があったのです。

漢文の素養が豊富な夏目漱石の代表作が『吾輩は猫である』であり、文人といえば猫がつきものだという思想が彼にあっても不思議はないでしょう。

夏目漱石/Wikipediaより引用

日本の歴史において猫とは、文字や紙の普及とセットになって広まった。

文明をもたらす使者のような小動物だったのです。

 

「犬」平安京の死体処理係

犬についてはどうか?

現代では「可愛らしい」というイメージが先行する一方、不幸な噛みつき事故が起きることもあります。

そんなとき改めて認識させられる脅威が狂犬病でしょう。

狂犬病にかかった犬/wikipediaより引用

犬はその体の大きさと、噛む力のため、恐怖や威圧も備えた存在でした。人類最良の友であることは間違いないけれど、可愛いだけでは済まない一面も持ち合わせていた。

平安時代と現代の飼育方法は、全く異なります。

当時は狂犬病ワクチンもなければ、首輪もリードもない。禍々しさが先立ってもおかしくない生き物です。とりわけ死体と関わりが深い【穢れ】もあり、それゆえに忌み嫌われました。

なんせ平安時代の犬には、今となっては考えられない役割がありました。

死体処理です。

当時は、平安京ですら遺体が放置されていました。腐るままに任せていても「犬やカラスが食べるだろう」という見通しがあったのです。

平安京の模型/wikipediaより引用

庶民の話だけでもなく、生後間もない貴族の乳児もそうでした。

藤原実資の日記『小右記』には、生まれてすぐに亡くなった実資の娘を放置したことが記されています。

当時は生後ほどなくして亡くなった赤ん坊は、冥界とのはざまにいる存在とみなされました。

そのため葬ることすらされず、遺骸が屋外に放置されたのです。

おそろしい話ですが、当時の人がこれを平然と見ていられなかったことが実資の記録から察せられます。

実資は胸が張り裂けそうなほど辛い思いを抱えながら、慣習に従ったのです。

さらに身分が低い庶民となると、過酷さが増します。

『今昔物語』にはおそろしい犬と少女の話が出てきます。

ある家に12、13の召使がいました。

その隣の家には犬がいて、少女と顔を合わせるたびに険悪な雰囲気となります。

少女が病気になると、主人は家を出るように言いました。少女は犬と出会ったら危険だと訴えます。

そこで主人は遠いところへ行くように言い、必要なものを持たせました。使いのものに様子を見に行かせることも約束します。

犬はどうやら少女を見つけていないようだとしばらくは安心していました。

しかしある日、犬は姿が見えなくなります。

少女のいた場所に行ってみると、果たしてそこには、互いに噛みあって死んだ犬と少女の亡骸があったのでした。

「哀れなことだ、不思議なことだ。現世だけでなく前世も仇だったのかもしれん」

そう人びとは語り合ったのでした。

現代人からすればゾッとさせられる話です。

病気の少女を外に追い出す主人はあまりに冷淡ですが、自宅で死人が出ると穢れるからそうしていた。

一応、遠くまで少女を送り、必要なものを与え、様子も見ているから、当時としてはむしろ親切な部類に入ります。

そして何より、犬と人が噛み、殺しあうことを“因縁”と処理するあたりがおそろしいものです。

 

「翁丸」犬にも心があり、涙を流す

大して珍しくもなく、人を噛み、死体を貪る――犬は穢れた存在でしたが、例外もいます。

【唐猫】のように日本原産ではなく、中国大陸や朝鮮半島を経由した小型犬は、長らく別物とされてきたのです。

奈良時代に日本に来た「狆(ちん)」は、江戸時代となると専属ブリーダーまでいたほど。

薩摩では、その辺の犬は食料となる一方、島津の殿は狆を育て、殖やし、愛し、プレゼントにすることもあったほどでした。

平安時代にも、愛玩犬はいました。

一条天皇の御猫に襲い掛かり、打ち据えられた犬「翁丸」がその代表であり、清少納言の筆は、この不運な翁丸について書き記しています。

翁丸は定子たちに愛されていました。

得意げに歩き、定子たちの食事の残り物を待ち受ける姿が可愛らしい。

藤原行成は桃の節句のとき、花や柳で翁丸を飾りたてたこともあります。

おしゃれをさせられて練り歩いていた翁丸は、どこか得意げで、「あのときはまさかこんなことになるとは思ってもいなかっただろう」と清少納言は思い出します。

翁丸が打ち据えられ、姿を消すと、定子サロンはロスに沈んでゆきます。

枕草子絵詞/wikipediaより引用

事件から数日後のこと。宮中で蔵人が犬を打ち据えているのか、激しい鳴き声がしています。

止めに入ると、みすぼらしいようで、どこか見覚えのある犬がうずくまっていました。

翁丸なの? いや、似ているけれど、どうもそうではない。定子の女房たちが不審がっていると、それでも定子のそばにじっと座っています。

「翁丸も殴られてかわいそう。あんなに殴られたら生きていないでしょうね。次は何に生まれ変わるのやら……」

そう清少納言がつぶやくと、なんと犬が涙を流すではありませんか!

「翁丸なの?」

「クーン……」

清少納言の問いに答える翁丸!

定子も一条天皇も知るところとなり、犬にも心があると皆が感動。

清少納言は翁丸を手当てしたいと言い出します。

「あなたがそこまで翁丸推しだったなんて知らなかった!」

同僚からはそうからかわれたそうですが、そりゃ好きになるのも当然だと言いたくなるような話でしょう。

清少納言が『枕草子』に記すこの逸話は、ただの犬への愛だけとも思えません。

人であれ、犬であれ、観察し、時には同情する清少納言の感受性の強さも感じさせます。

『枕草子』は、定子とその兄弟の転落は触れておらず、それが軽薄とされることもあります。

けれども打ち据えられた翁丸に寄せる心根の優しさはちゃんと書かれているのです。

翁丸にこうも同情する清少納言が、ただ座して定子たちの悲劇を見ていられたとは思えません。

勝気なだけでない、彼女の優しさが伝わってきます。

 

「犬野郎」武士と犬の不幸な関係

鎌倉の坂東武者も【金沢猫】にはメロメロになりました。

では犬は?

源実朝の暗殺事件の際、北条義時が「白い犬を見た」という伝説は有名です。

実朝たちに斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵

「白」という毛色が重要なのでしょう。神秘の色であり、十二神像の戌像が姿を変えたものとされます。

そのような由来があればまだしも、何もないただの犬は、むしろ罵倒の象徴。

相手を犬になぞらえる罵声は鎌倉時代の定番でした。

和田義盛とその一門が滅びた後のこと。

三浦義村がまだ若い千葉胤綱が上座に座ったことに対し、こう毒付きました。

「下総の犬っころは自分の寝床も知らんようだな」

すると胤綱はすかさずこう返しました。

「三浦の犬は友の肉を食らうらしいな!」

翁丸の健気さに涙を流す京都の貴族とは全く異なる、犬への態度がそこにはありました。

【犬追物】という軍事教練は、鎌倉時代に始まっています。

どうせ弓矢の訓練をするならば、的が動いた方がよいだろう――そんな理屈で犬を追いかけ、弓矢で射たのです。

犬追物の様子/wikipediaより引用

猫と犬の格差は、武家社会ではより苛烈なものとなってゆき、豊臣 秀吉は、朝鮮で得た虎に犬を生き餌として与えたとか……。

日本では肉食は盛んでなかったものの例外はあり、薩摩隼人は犬をよく食べていました。

そうした犬の受難を終わらせたのが、徳川綱吉です。

彼は犬を熱心に保護したため【犬公方】と揶揄されましたが、【生類憐れみの令】とは日本人の苛烈な意識を変えたショック療法とも言えます。

生類憐れみの令】では犬を保護するだけでなく、瀕死の病人を家から追い出すような行為も禁じられました。

『今昔物語』のように家から追い出される病人も、虐待される犬も、綱吉以降は消えてゆくのです。

 

「鳥」空へ飛び立ち 運命を変える

『光る君へ』では、まひろが小鳥を飼育していました。

この鳥が逃げたところを追いかけて、三郎という少年と出会い、物語が始まる――『源氏物語』で紫の上が初登場という場面へのオマージュとされます。

「雀の子を犬君が逃しつる」

つまりは、雀の子を犬君が逃してしまったと嘆きながら、まだ幼いヒロインは登場してくるのです。

一方、彼女の世話をしている祖母の尼は、孫の幼さを嘆きました。

仏の教えを知っていれば、小鳥を飼うようなことはしないだろうに……というもので、そんな幼い少女を、最愛の藤壺に似ているからと、光源氏がロックオンしてしまう場面ですね。

この場面から、無邪気で幼い子ども心を示すペットとしての小鳥が見えてきます。

他にも、藤原道綱とその母(『光る君へ』では藤原寧子)の『蜻蛉日記』に同様の描写が記されています。

浮世絵にも描かれた『蜻蛉日記』岳亭春信:画/wikipediaより引用

兼家との生活に疲れ果てた彼女は、いっそ出家しようかと言い出す。

すると子は泣きじゃくりながら「それなら私も出家します!」と言い出しました。

「あなたが出家したら、あの飼っている鷹は誰が世話をするの?」

母は我が子に問うと、子は、止まり木にいた鷹を掴むと空に放ってしまった。

この姿を見て、母も子も、女房たちも涙を流した――という話です。

母子を嘆かせたのは、つれない態度を取る藤原兼家でした。

そんな兼家も、ドラマの中ではペットを飼育していて、これがなかなか象徴的だったりします。

 

「鶏」その声が朝を呼ぶ

『光る君へ』の中で、権力欲が旺盛な藤原兼家は鶏を飼育し、自ら餌を与えていました。

同じ鳥類でも、小鳥と鶏では大きく意味は異なります。

鶏は権力欲の象徴と見なせなくもない。

朝、鶏が鳴く――こんな文章を読めば、現代人ならばそれが鶏の習性だからだと考えます。

しかし、昔はそうではない。因果関係が逆転してこうなる。

鶏が鳴くから、朝が来るのだ――つまり鶏の声とは、朝を連れてくる神秘的なものと見なされていたのです。

『書経』にこんな言葉があります。

牝鶏之晨、惟家之索。

牝鶏の晨(ひん)するは、惟(こ)れ家の索(つ)くるなり。

雌鶏が朝を告げれば、国滅ぶ。

「雌(メス)の鶏が泣くと国が滅んでしまう」とは、つまりは「女性が権力者となると国が傾く」という意味とされ、逆に「朝を告げる雄鶏の声にどれだけ神秘性を見出していたか」が浮かんでくるでしょう。

『光る君へ』の作劇をふまえると、兼家のペットが鶏というのはなかなか興味深い。

藤原兼家/wikipediaより引用

劇中での兼家は頻繁に「我が一族こそが先頭に立つ宿命にある」と語ります。鶏が朝を呼ぶように、自分たちが世の先陣を切るという思いが強いのでしょう。

あるいは自分より身分の下の者たちに見せつけているかのようにも思えます。

召使ではなくあえて自ら餌を与える。それを見せつける。

藤原為時や安倍晴明が、その姿勢から何かを読み取っても不思議ではありません。

鶏は神秘的かつ、益獣とみなされました。675年に天武天皇が鶏の食用を禁じ、それが守られてきました。

肉がダメなら卵はどうか。これも仏教信仰の高まりと共に禁じられたようで、藤原実資は『小右記』で「鶏卵を食べることをやめた」と記録しています。

「代わりに小鳥を食べればよい」と発想の転換がなされたため、現在でも「鶏肉」と「鳥肉」表記両方があります。

他の漢字文化圏では「鳥肉」は小鳥のみを指すため、誤解を招くこともあるそうです。

中国における鶏は、その神秘性ゆえか、血が強力な呪力を持つとされ、例えばキョンシー退治のお札は鶏の血で文字が書かれています。この伝統は日本には伝わりませんでしたね。

『百人一首』62番、清少納言の和歌にも鶏は出てきます。

夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

【意訳】夜が明けたと白々しく鳥の声が聞こえたふりをしているけど、函谷関の関守は騙せても、逢坂(ロマンス)の関守である私にはお見通しだからね

あるとき、清少納言と藤原行成は夜通しおしゃべりを楽しんでいました。

すると行成がこう言い出します。

「もう夜が明けちゃった。物忌もあるし行かなくちゃ」

そうして、そそくさと去った後のお詫びの手紙に、清少納言がつけた和歌です。

この「函谷関の関守を騙す」とは【鶏鳴狗盗】(けいめいくとう)という、戦国時代を代表する戦国四君の一人、孟嘗君(もうしょうくん)の故事由来です。

『光る君へ』では『史記』「孟嘗君伝」を、為時が我が子と読む場面が出てきています。

孟嘗君は鶏の鳴き真似名人や、狗のようにつまらぬコソ泥をも雇っていました。

あんなチンピラ、何の役に立つのか?と周囲は訝しがっておりましたが、孟嘗君のピンチの時、救ったのは彼ら。

鶏の鳴き真似名人のおかげで、函谷関の関守は騙されて門を開けた――というものです。

清原深養父と清原元輔の子孫にあたる清少納言らしい、教養とウイットに富んだ和歌です。

 

「虫」その音色を愛でる

平安貴族は虫をかごにいれて、その声を楽しむこともありました。

これを拡大解釈して「虫の声を愛でるのは日本人だけだ!」とする見解もありますが、他国にもあります。

では、どんな虫を飼っていたのか?というと、虫の名称が変わるためか、諸説紛糾している状態。

ともかく虫の音を愛でていたことは確かです。

虫を飼育し、声を聞く文化は、中国にもありました。

中国だけにあり、日本にはない文化は闘蟋(とうしつ・コオロギ相撲)です。コオロギ同士を戦わせるゲームで、大金を賭けて遊ぶため、大いに盛り上がりました。

 

「蛍」苦学と追憶の象徴

卒業式などで流れる定番の曲として『蛍の光』があります。

「蛍の光と窓の雪をたよりに学んだ」という苦学の象徴から始まるこの歌詞、出典は『晋書』「車胤伝」です。

貧しい車胤は、蛍の光と窓の雪を頼りに勉学に励み、このことを「蛍雪之功」と呼びます。

『源氏物語』でも、光源氏が息子の夕霧に勉学を促す際に「蛍雪之功」を引用しています。

藤原為時も、息子の惟規に対して、何度も何度もこの言葉を使ったことでしょう。それを横で姉が耳にしていたとしても不思議はありません。

そんな蛍の光は、亡き人の思いを呼び覚ますものの象徴でもありました。

平安貴族がこよなく愛した白居易『長恨歌』にこうあります。

夕殿蛍飛んで思い悄然

孤灯挑(かか)げ尽くして未だ眠りを成さず

夕暮れに飛ぶ蛍を見ても落ち込むばかり

灯が全て消えてしまっても眠れない

光ながら舞う蛍を見ると、愛する人のことを思い出してしまう。この光と共にあの人の魂も飛んでいるのではないか? そう思うと、夜になっても眠れない――そう嘆いているのです。

光源氏が最愛の紫の上を追想する『源氏物語』の場面では、蛍の光を見ながら、この『長恨歌』の一節を思い出すのでした。

『源氏物語』には「蛍兵部卿宮」、短く「蛍宮」と略される人物も登場します。

名前は美しいものの、彼の場合は最悪の由来といえるでしょう。

そのものズバリ、『源氏物語』には「蛍」の巻があります。

かつて光源氏と愛を交わし、結果的に頓死してしまった愛人の夕顔。彼女には、頭中将との間に玉鬘という娘がいました。

年頃になり、美貌の持ち主となった玉鬘を見出した光源氏は、自邸に引き取ったうえにセクハラ三昧の日々を送ります。

権力者である光源氏のもとに、美女がいるとなれば貴公子たちはソワソワ。

なんとかものにできないか?とざわつき始めました。

ここで光源氏は平安リアリティショーを企画します。

蛍を包んで照明にしたドッキリ。

何も知らない玉鬘を誘き出し、蛍の光のもとで彼女を狙う貴公子たちにその美貌を見せつけ、ショーを盛り上げようとしたのです。風流な蛍を悪用した場面といえます。

この策により、玉鬘に惚れた人物が「蛍宮」でした。

結末は、髭黒という男が玉鬘に強引な迫り方をして終わり、蛍宮の思いは、まるで蛍の光のように儚く散ったのです。

紫式部の才能を感じさせる蛍の巧みな使い方といえるでしょう。

水野年方「三十六佳撰 螢狩 天明頃婦人」/wikipediaより引用

鶏が朝を呼んでくる。

蛍の光は勉学を励まし、愛する人を思い出させる。

猫が書物を守り、魔物を遠ざける。

犬は人の言葉を聞いて、涙を流す。

平安時代の人々は、身の回りの生き物を愛で、故事や名文を引用し、さらなる意味を持たせてきました。

小さな命に意味を見出してきたさまを『光る君へ』はどう映像にするのか。

それを楽しみに今後も見守っていきましょう。


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【参考文献】
山本淳子『古典モノ語り』(→amazon
安田政彦『平安京のニオイ』(→amazon
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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